解釈は聴衆のものである



 9月11日、12日の『毎日新聞』に、ワーグナーの生誕200年を祝う今年のバイロイト音楽祭で、カストロフという人による『リング』の新演出が、バイロイトの歴史に残る大ブーイングを浴びた話が載っていて、興味深く読んだ。それは主催者が照明を付けて、打ち切るまでの20分間も続いたというから、バイロイトだけでの話はなく、世界のオペラ史に名前を残す最大のブーイングだったかも知れない。

 記事によれば、今回の演出のコンセプトは、権力の象徴であるリング(指輪)を石油に置き換え、アメリカ資本主義を神々の世界と見立て、その陰影と崩壊とを描くことにあったそうである。掲載された写真には、マルクスレーニンスターリン毛沢東の顔が刻まれた大きな壁が舞台に設置されている様子が写っている。そして、「どう考えても意味の分からない過剰な動きや装飾に満ちており、ワーグナーランドとでも呼びたいような動物付き遊園地の趣であった」と書かれる(梅津時比古筆)。これを読んで、「さもありなん、だから言わんこっちゃない」と思った。

 今年の3月に、メトロポリタン歌劇場のライブビューイング(やはりその時もワーグナーで、『パルジファル』)というものを見に行った話を書いた。その際、私は、最近オペラの世界で非常に増えているように見える過剰な演出、特に過去の話を現代に置き換えるための演出に異を唱えた。ドラマの中の普遍性の抽出や、それに基づくあてはめ(解釈)などは、聴衆各自が勝手にするべきものであって、演出家が作り出して押し付ける筋合いのものではない、というのがその時の主張だ。楽譜に手を加えることは許されないし、それを敢えてしようとする人もいないのに、舞台設定については大胆な書き換えが許されるという理屈も理解できない。考えは今もまったく変わらない。

 そもそも、オペラは音楽なのだろうか、劇なのだろうか?演出を排除した演奏会形式での上演や、CDで音楽だけを聴くという作業は、ワーグナーとそれ以降のオペラについても一般に行われるが、音楽をカットして、その台本が演劇として上演された話は聞いたことがない。なぜオペラの台本が演劇形式での上演を許さないかと言えば、突飛で無理な、神話伝説ともひと味違う非現実的ストーリーが多いからではないか?と思う。音楽を効果的に聴かせるための「装置」だからこそ、それらは我慢の範囲となるのであり、音楽を取り去れば支離滅裂な茶番となるオペラは少なくないような気がする。だから、オペラはやはり音楽の世界のものだと思う。

 過剰な、奇を衒ったかのような演出は、聴衆に余計な解釈を押し付けるだけではなく、音楽の地位を相対的に低下させる作業でもある。演出家は、楽譜の中にある解釈の余地と同じレベルで、脚本の中から演出の解釈の余地を探し出すに止めるべきである。今回の『リング』に関する話は、その問題を鮮明にしてくれたという意味で価値があった。どんなに古い作品であっても、「古典」は常に新鮮な何かを聴衆に提供するものだ。演出家でなくても、人にはそれを抽出する能力がある。私のような田舎住まいの人間には、オペラも新演出もなんら身近な話ではなく、迷惑もないが、今回の記事を始めとするいろいろな情報に接しながら、現代文化のあり方に関する問題として面白かったから書いておいた。