哲学の快感・・・内田樹『最終講義』



 1年近く前に、尊敬すべき先輩から内田樹氏の『最終講義』(技術評論社、2011年)という本を薦められた。講演集である。読もうと思っているうちに、時間だけがどんどん過ぎていった。7月に参議院議員選挙があった後、内田樹氏による選挙結果に関する長い論評が『朝日新聞』に載った。もともと、内田という人をよく知らなかった私は、ああ、これが『最終講義』の著者だな、と思いつつ、記事を読んで「俺の方が上だな」と思い(笑)、その本を読む意欲を低下させてしまった。夏休み明けに、宮水図書館がこの本を買ってくれたので、最近、ようやく読んでみた。なるほど、尊敬すべき先輩が薦めるだけのことはある、と思った。面白かった。

 内田氏の問題意識、危機感というものは、基本的に日頃の私の問題意識と重なり合う。最も重要なのは、教育、学校のあり方についてだ。そして次に、今の学問の世界、特にそこで生きようとする若者に対する問題意識なのだが、こちらは、日頃若者の書いた論文を読んで似たような感想を持つので、なるほど確かにそうなんだろうな、と感じはするものの、今時の大学院生やポスドクをそうそう直接に知っているわけでない私としては、偉そうなことが言えない。

「博士課程の若い研究者たち、あるいはフランスに行って博士号を取って帰って来た人たちの発表を聞いて、知的な高揚感を覚えるということが全くなかった。さっぱりどきどきしてこない。どうして、どきどきしてこないのか。たぶんこの人たちは、自分の業績をどんなふうに高く評価してもらうかということを考えて発表しているからだろうと思いました。彼らは査読する人たち、自分の業績に点数をつける人たちに向かって発表しているんです。」

「「マーケットのニーズに合わせる」「ターゲットにする層を絞り込む」(中略)僕はそれは違うと思います。だから、ずっとそう言ってきた。ビジネスはそうでしょう。でも、学校は営利企業じゃない。学校というのは、「教えたいこと」がある人間が始めるものであって、「教わりたい」という人が今のところゼロでも、それでもじっと待つ覚悟がなくちゃ学校なんかできない。(中略)その発想が今日の大学の危機の時代においては、完全に転倒している。市場のニーズに追随して大学が次々と教育プログラムを変えてゆくと何が起こるか。簡単ですよね。日本中の学校が全部同じになるということです。」

「僕が日本の教育行政に一貫してきびしく批判的なのは、教育行政官たちが、教育内容を統一し、子どものあり方を統一して、みんなが同一の価値観、同一の社会観を持つように規格化・標準化することを教育の目標に掲げているからです。その発想の根本が間違っている。(中略)今の日本の教育崩壊というのは、子どもたちの成熟機会を大人たちが寄ってたかって破壊し続けてきたことの結果なんです。」

 300ページほどある本なので、もちろん、こんな引用をしたくらいでは、逆に誤解を招くかも知れない。ともかく、内田氏という人は本来の意味での「哲学者」だと思った(←これは私による最高の褒め言葉である)。フランス現代思想を専門とする学者だということなので、ならば当然、と思う人もいるかも知れないが、思想や哲学の研究をしているから哲学ができるとは限らない。「哲学者」の条件とは、揺れ動く現実を前にして、その現象に惑わされることなく、常に原点を見つけ出し、そこを基準に考えることを徹底できるということだ。哲学というのは、過去形ではなく、現在形でなければならない、学術というよりは精神運動なのである。

 内田氏が若い文系研究者に感じるような退屈を、私が内田氏に対して感じないのは、彼が理系研究者に感じるような、学問に対するわくわく感と発信力とを感じるからというよりは、根本では同じことなのかも知れないが、精神が常に現在進行形でアクティブに活動しているのを感じるからである。

 ただ、彼の大学(教育)批判などは、現実に大学経営に当たっている人たちから見れば、机上の空論と感じられることであろう。もちろん、内田氏なら、立派な大学を運営していこうとするから悪いのであって、粗末な寺子屋でもいいではないか、と言うだろう。それを非現実的と言ってよいかどうか・・・?

 損得と真偽は矛盾する。学問や学者のあり方に関する部分はいいとしても、学校論については、その辺をどう乗り越えればよいのか。さすがに、もう少し現実との折り合いの付け方を教えて欲しいという気がした。