人の心が変わる瞬間・・・ラボ第28回より

 8月も下旬に入ったが、めちゃくちゃに暑い。日中の30℃も、石巻としてはさほど当たり前ではないのだが、夜中に気温が下がらないことの異常さと来たらない。今年の真夏日は既に25日、熱帯夜も15日に及ぶ。どちらも過去の記録(真夏日21日、熱帯夜5日)を大幅に更新し、しかも現在進行形だ。週間予報を見ても、いったいこれがいつまで続くのか、まだ見当が付かない。あさってからは授業が始まる。

 ところで、一昨日、19日はラボの第28回であった。前回(→その時の記事)、大家を招いたので、というわけでは必ずしもないのだが、今回は新進気鋭の若手研究者を招いた。金沢大学専任講師(英米文学)の宮澤優樹氏である。演題は「人の心が変わる瞬間--ディケンズの『クリスマス・キャロル』考」。
 ごく簡単に言ってしまえば、ディケンズは、俗的な欲望に満ちた社会を見て、読者に道徳的な改心(キリスト教的道徳への回帰)を願い、しかも、様々な現象に因果関係を求め、それによって心理的な準備をすることで道徳的変身が実現するというプロセスを好んで描いた。そのような発想が端的に表れたのが『クリスマス・キャロル』だということになる。
 宮澤氏は、それを単に『クリスマス・キャロル』その他のディケンズ作品を丁寧に読むというだけではなく、心理学者ウィリアム・ジェイムズの回心論や旧約聖書の「ヨブ記」、更には三浦綾子、ハメット、ホーソーンの作品と比べ、同様のもしくは対立する部分を指摘しながら、特徴付けていった。
 そして、最後に、『クリスマス・キャロル』では、幽霊の指摘によって未来への予測可能性が得られたからこそ主人公スクルージが改心できたとすれば、それは現実的に意味を持つものではないのではないか、とした上で、小説を読むことを通して私たちは改心することが可能なのか、と問う。宮澤氏は、それが可能であるか不可能であるか、その答えは示さないが、問うことができるのは道徳的意識を持つ人間だけであるとして、その可能性に道を開いている。
 丁寧なレジメが用意されたこともあって、お話は非常に明快。終わった後には、質問もたくさん出た。真面目な私は(笑)、『クリスマス・キャロル』を3回読んでラボに臨んだのだが、ディケンズが、幽霊という非現実的存在に重要な役割を与えたということが非常に不満だった。それは、上の宮澤氏の指摘と同じである。神がかり的な存在を登場させれば、何でもできてしまうのは当たり前だと思うからだ。いかに小説=虚構とは言っても、現実的な物語の中で非日常的なことが実現し、しかもそれが説得力を持っている必要があるのではないか?
 また、これは宮澤氏にも直接質問したのだが、道徳的な改心を求めるとか、因果を重要視するといったディケンズの考え方は、ディケンズが実際に生きている中で、そう考えざるを得なくなったものである。道徳的改心への希求というのは、当時ディケンズが目の当たりにしていた社会が、「俗的な欲望に満ち」ていたことで説明は付くが、因果の重視はなぜだろう?彼の人生や社会状況のどのような要素が、そこに反映されているのか、文学を研究するといった場合には、そのような背景についての考察が重要になるはずである。宮澤氏にはそれなりの回答をしてもらったが、もっと史的背景をしっかり聞いてみたい気はした。
 理系専門家のお話は、素人が聞いた時に質問はできても反論は難しい。ところが、今回は小説である。素人が物知り顔に反論することも議論することも可能だ。だからだろう、懇親会の場でも、その後流れた二次会の場でも、いろいろと勝手なことが語られた。応対する宮澤先生は大変だっただろうが、先生の講演の結びを借用するなら、そうして議論を誘発するのが小説(文芸作品)のいい所だ、ということになるのかも知れない。
 昨日は、宮澤氏とその友人、そして私で列車に乗り、女川の「三秀」(→参考記事)に焼き肉飯と餃子+ビールを求めて行ったら臨時休業だった(残念!!)。仕方がないので、寿司やお惣菜を買って肴にしてビールと「愛宕の松」(前の「参考記事」にあり)を呑み、石巻に戻って某中華料理屋でしこたま紹興酒を呑んだ。暑い中で大量のアルコールを摂取したのはよくないが、いい2日間を過ごした。感謝。