選べないことの価値



 来年度の科目選択の締め切りが迫っている。そのことに直接関係はしないが、科目を選択するということについていささか思うところがあるので、諸君の考える材料として書いておくことにする。

 意外に思う人もいるかも知れないが、私は仙台フィルハーモニー管弦楽団の定期会員券なるものを持っている(買っている、と言った方が正しいかも。9回で約25000円也)。それほど音楽が好きかと言われれば、確かに好きではあるのだが、これほどいろいろなジャンル、レベルの音楽家が多数来仙するご時世、私があえてそれを持っているのには、やや違った理由があるように思う。

 音楽であれ、映画・演劇であれ、自分でわざわざ切符を買って行くとなると、自分が見たい(聴きたい)演目、出演者の時にしか行かないのは当然だ。

 ところが、年間一括という切符を持っていると、自分が行きたくもない曲目、出演者の時にも、切符を捨てるのがもったいないからという理由で仕方なく行く。そして、毎年何回かは思いもかけない発見をし、それをきっかけに自分のよく知らなかった人・曲についての勉強もする、ということが起こるものである。この体験(きっかけ)が貴重であるため、なかなか止められない。

 ここで私が思うのは「選べないことの価値」だ。選べないからこそ、チャンスが生まれる。また、選べないからこそ、時間とお金を無駄にしたくないために、あきらめて(?)面白さは何か、何とか面白さを見つけ出してやろうという心理になるのであって、純粋に聴きたいから切符を買うと、期待満々で行くために小さなアラも気になってがっかりするということが、往々にして起こるような気もする。「選べる」ことの価値を私は必ずしも否定しない(そもそも仙台フィルの会員券というのも選択の結果だから)が、どうも最近はそればかりが強調されすぎるように思う。教科選択はもとより、一高の「担任選択」という驚くべきものまで、「選べる」ということをセールスポイントとして盛んに宣伝するというのは日常よく見ることだが、そればかりが価値観として突出すると、そのうち、理屈抜きにして「選べる」のは全ていいことだ、となってしまう。本当にそうか?

 服の色や車のデザインでもあるまいし、高校で勉強する程度の基本中の基本をわざわざ選べるようにする必要などあるまい。相変わらず天の邪鬼な私である。