抱腹絶倒・・・啄木いろはかるた



 先日、帰宅すると、妻が何物かを手に取って、非常に複雑な表情をしていた。見れば手にしているのは「かるた」の札である。幼い娘を遊ばせるのに、何かきれいな絵の画いてあるものが欲しいと、家の中を物色した結果、私の書架に「啄木いろはかるた」なるものを発見したのだが、いざ使ってみようとしてどうも変だ、と考え込んでしまった、と言う。

 この「かるた」は、20年以上も前に私が人からもらい、使わないまま書架に置いておいたものである。妻に言われて、箱の中に入っていた解説書を見てみると、さすが「かるた」だ。「このカルタで啄木を偲びながら、今年もめぐってきた冬の、そしてお正月の新雪に、心をさわやかに洗いましょう」とある。確かに「かるた」と言えばお正月である。ところが、いざ当の「かるた」を手に取って私も少し途惑い、そしてやがて大笑いしてしまった。例えば(あくまでも例であり、一部である)・・・

 [ろ] 労働者・革命などといふ言葉を 聞きおぼえたる五歳の子かな

[は] はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

ここまで読んで、私は思わず「かるた」の札ではなく、自分の手のひらを見つめてしまった。次、

 [ね] 猫を飼はば その猫がまた争ひの種となるらむ かなしき我が家

そして一番最後には「ん」という札があって、なぜか次のような歌が書かれていた。

 [ん] 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど

 私には、この撰者の頭の構造が全く理解できない。日本の長い和歌の歴史の中でも、これほど暗く、光の見えない歌はそうそうあるものではない。とても「お正月の新雪に、心をさわやかに洗いましょう」と言うようなシロモノではない。バカバカしすぎて、あまりにおかしいものだから、つい書いてみたくなっただけなのだが、ここから教訓めいたものを見つけ出すとなれば、以下のようであろう。

 撰者は自宅の庭に啄木の歌碑を作ったほどの熱狂的な啄木ファンだそうである。それくらい啄木に惚れ込んでしまうと、啄木の歌、啄木に関するものであれば何もかもが素晴らしく、それが他の、つまり啄木に対して何の思い入れも持たない人にはどのように感じられるか、とか、「お正月」に合うとか合わないとかは一切考えられなくなってしまっているに違いない。「思い込み」とは恐ろしいものである。そして、自分の思いを客観的に見つめるというのは大切なことだ・・・