電車の中の人間関係



 諸君の中には知る人もいるまいが、石巻には「三陸河北新報社」という地方新聞社があって、「石巻かほく」という日刊紙を出している。大手の「河北新報」の子会社ではあるかも知れないが、地方版などでは断じてなく、一応れっきとした独立紙なのである(ちなみに、この会社は気仙沼地区では「リアスの風」という新聞を出している)。

 11月17日(木)の「石巻かほく」に、ある記事が載った(裏面に片岡多美子筆「仙石線友の会」引用)。特別どう、ということのない記事だが、筆者が27年前にしていたのと同様、私が現在仙石線で仙台に通っているものだから、私自身は面白いなあと思って読んだ。当時仙台まで1時間40分というのに驚き、我が書架から27年前の時刻表(1978年10月号、我が家にはこういうものがあれこれ取ってある)を取り出して確かめたところ、快速1時間10分、普通1時間25分で、今と全く同じであった。過去を誇張するというのは、人が往々にして陥る心理である。

 それはともかく、私も毎日、同じ人と顔を合わせながら電車に乗っているが、その人達とコミュニケーションが生ずる可能性は全く感じていない。むしろお互いが故意に避けているような気さえする。日本の社会は機能的であるが、人間的な温かさ、人と人との自然な触れ合いというものが少ないとはよく言われる。それを象徴するような現象である。思えばアジアの田舎だけでなく、欧米でも、電車で乗り合わせたり、店で会ったりした人と会話をすることはあまり難しくないし、顔見知りになれば挨拶くらいするよなあ、と思う。

 インドでボランティアをしていた故マザーテレサはかつて、「死を待つ人の家」を作った時、「路上で行き倒れた人にとって、苦痛なのは死ぬことではなく、誰からも見捨てられたことだ」というようなことを語った。私も、人がこの世で豊かな毎日を送るということについて、最新の車や電子機器を持ったり、高級な物を食べるというのは、案外どうでもよくて、人と人の関わり合いによる部分が大きいと思う。そして今の日本は「豊かさ」の中身として前者が偏重されすぎていると思う。

 27年前とて、通勤者の全てが筆者のようであったとは思わないが、今に比べて、ほのぼのとした雰囲気が電車の内にあったのは確かなのだろう。羨ましいような気もするが、少しは煩わしいような気もし、私自身、時間を逆行させるべく一歩は踏み出せない。