採点の苦しさと日本語の豊かさ



 先週は休刊にしたところ、この二週間の間に、考査があり卒業式があり、そして高校入試があった。

 高校入試はある意味で面白く、とても勉強になる。日頃、考査の採点に私が煩悶していることは諸君も知る通りであるが、入試の採点は、国語科の全てのメンバーが額を付き合わせ、一つの問題を必ず複数の人間で採点することになっているので、他の人がどんな要領で採点するのか目の当たりにする貴重なチャンスなのである。

 国語科は時間がかかるからと、他の教科に先駆けて、入試当日の午後から、1日半にわたって取り組んだ。その結果・・・採点基準をどう設定するかというのは、誰にとっても常にやっかいな問題なのだ、ということを思い知っただけで、私にとって「光」は一切見えなかったのである。

 しかし、見方を変えれば、平仮名が一つ違うだけで、一つの句点の位置がどこかによってニュアンスががらりと変る、言いたいことは分かるのだが、他の意味にも理解できる、等々といった困った現象は、実は、言葉の奥深さというか、豊かさそのものなのだ。ほんの少しのことで得体の知れない日本語になるということは、ほんの少しのことでとんでもなく魅力的な表現になる可能性をも同時に持つ、ということだからだ。採点はつらいが、そんな言葉の持つ可能性を思い知るのは感動的だ。