長倉洋海と山本周五郎



〈仕事と金・・・長倉洋海講演会〉

 先週土曜日の午後、私は、大好きな写真家・長倉洋海氏の講演会に行った。話そのものは、彼の写真や著書(岩波新書『フォト・ジャーナリストの眼』は特に面白い。いつぞや、このプリントの裏面に「後書き」の一部を引用したことがある)に比べればたいしたことのないもので、がっかりしたとも言えるが、よく考えてみると、写真家が写真より話の方が面白いようでも困る。

 今回も少し語られたが、私が彼を評価する原因(≠理由)のひとつに、この人の取材がすべて自主取材だ、ということがある。つまり、企画書によって出版社と契約し、お金をもらって取材に行き、成果を出版するというのではなく、自費で取材に行き、その成果を出版者に売り込む、というスタイルを取っているのである。前者は安全確実な方法だが、出版社に気に入ってもらえるテーマ設定をし、現地で様子を見ながら気が変っても変更はしにくく、取材期間も方法も出版社の意向によって制限を受ける。後者は、仕事が売れるかどうかという心配はあるが、とりあえず臨機応変、かつ自分の問題意識を貫いた取材が出来るし、よりよい作品を作ることへの緊張感も高まるだろう。もっとも、取材をしながら、それが売れるかどうかの心配ばかりしていたのでは、元も子もない。結局、方法の問題と言うよりは、彼の純粋な姿勢が、このやり方の純粋さを守り、このやり方のメリットを有効利用することになっている、と言ったほうがいいのかも知れない。

 言うは安く行うは難い。とても勇気のいることだし、自信がないと出来ないことでもある。しかし、私は、仕事というのは、質を高めたければ本当はこうでなければいけないのだ、と思う。

〈仕事と目的・・・山本周五郎のことから〉

 先週の現代文の授業で、「たかがセンター試験用の問題演習」で山本周五郎を扱った時、彼の「芸術は人を楽しませ、高めるためのものであって、人を打ち負かすためのものではない」という信条と、生涯「賞」を拒んで受けなかった彼自身の生き方について、諸君が強い関心を示したのは意外で面白かった。

 よく考えてみると、これは芸術や文学に限ったことではないだろう。どんな仕事でも「人を楽しませ」の部分に、仕事の内容・性質に応じて、他の言葉を当てはめる必要はあるだろうが、「人を打ち負かす」ためのものではない点は同じなのではないか。そしてこのことは、言われてみれば分かり切った話でありながら、現実の生き方として貫こうとした場合には、特に勝とうと思えば勝てる力のある人にとって、なかなか困難なことであるに違いない。だから、山本周五郎が偉いとすれば、そのように考えたからではなく、そのように生きたから、ということになる。いずれにしても、仕事の本質について問い直すためのよい言葉であり、よい生き方であると思う。