井上校長時代の海軍兵学校(名門校とはどうあるべきか)



(裏面:阿川弘之山本五十六』より引用、学校教育を語って面白いので、少し長くなるがここにも載せよう。)

「 余談であるが、このあと十月二十六日付で兵学校長が発令になって、江田島へ転勤した井上は、兵学校の教育が如何にもゆとりが無く、窮屈な感じで、生徒たちの眼が狐のように皆吊り上がっているというので、「あれでは前科三犯の面構えじゃないか」「秀才教育をするな」、「兵学校の教育を立身出世の目標にするな」ということを強調し、前線から帰った教官連中が生徒に戦争の話をするのを、一切禁じてしまった。

 参考館に掲げてあった歴代海軍大将の写真も、

「あの連中の半数は、自分が国賊と呼びたいような人たちだ。それを生徒に景仰させるわけにはいかない」

 と言って、全部下ろさせた。

兵学校長時代の井上中将についてはこのほか色んな逸話が残っている。

 当時日本では、適性国語を使うなということがしきりに叫ばれていて、陸軍の聯隊などでカレーライスのことを「辛味入り汁かけ飯」と言わせたという、今の若い人には嘘と思われそうな話もあるが、英語の教育は全国の各学校で次第に廃止削減の方向に向かいつつあった。

 その風潮は江田島にも及んで来、全教官の合同会議で、兵学校における英語教育の廃止と兵学校入学試験課目から英語をはずすことの是非が論ぜられたことがある。

 陸軍士官学校では早く入試に英語を課さなくなってしまったので、ほかの成績は優秀だが英語が苦手だという生徒が兵学校を離れて陸士へ流れる、兵器資材の配分と同じく人的資源も陸海軍で奪い合いの時にそれが困るという実利的廃止論もあり、企画課長の小田切政徳中佐が最後に全員の決を採ってみると、大多数の教官は廃止賛成の方に手を挙げた。 小田切は、

「ご覧の通りでありますが、これを以て本日の教官合同会議の決定といたしてよろしゅうございますか?」

 と、校長に伺いを立てた。

 するとそれまで黙って聞いていた井上が、非常にきつい口調で、

「よろしくない」

 と言って立ち上がった。

「よろしくない理由は只今から申し述べる。一体どこの国に他国語の一つや二つしゃべれない海軍兵科将校があるか。そのような海軍士官は海軍士官として世界に通用することは出来ない。好むと好まざるとにかかわらず、英語がこんにちいおいても尚、海事貿易上世界の公用語であることは明らかな事実であって、事実はこれを事実として認めざるを得ない。軍人を養成する学校であるから、戦争に直接役に立つことだけを教えておればいいというなら、すべからく砲術学校水雷学校等の術科学校を充実して海軍兵学校そのものは廃止すべきである。兵学校は特務士官の養成学校ではない。卒業してすぐ実務に役立つような教育は丁稚教育であって、吾人は丁稚の養成を以て本校教育の眼目とするわけにはいかない。兵学校教育の目的は、識見と教養とを備えた真にジェントルメンライクの、将来何処に出しても羞ずかしくないだけの海軍将校の素地を養うにある。言いかえれば大木に成長すべきポテンシャルを持たしむるにある。優秀な生徒が陸軍へ流れるというなら流れても構わぬ。外国語一つ真剣にマスターする気の無いような人間は、帝国海軍の方でこれを必要としない。近時日本精神作興拝外思想排斥の運動の盛んなるはまことに結構なことであるが、これを主張する人々を冷静に観察してみると、島国根性の短見を脱していない者が多いのは遺憾であって、諸官は似て非なるかかる愛国者の浮薄なる言動に惑わされることなく、本校においては英語のみならず、今後も普通学の教育に一層の力を入れてもらわねばならない。たとい多数意見であろうとも、本職在任中英語教育の廃止というようなことは絶対にこれを行わせない方針であるから、左様承知をしておいてもらいたい。」

 兵学校の教官室ではそのあと、若手の武官教官たちの間に、

「何だ、校長は親米派か、国賊じゃないのか」

 という喧々囂々の声が起こったということである。歴代海軍大将の半数を国賊だと罵った井上は、当時の海軍上層部の一派からも国賊呼ばわりをされていた。

 海軍省兵学校生徒の精神訓育のためにと、平泉澄を講師として派遣して来た時にも、彼は平泉の国粋主義思想に難色を示し、ただ平泉博士に傷をつけることをおそれて、教官たちだけにその講話を聞かせるという苦肉の措置をとった。

 また、井上成美の校長在職中、ある日鈴木貫太郎が平服でぶらりと兵学校を訪れて来たことがある。

 企画課長の小田切政徳は鈴木と井上の供をして校内を一巡したあと、二人が貴賓室に入って差し向かいになると、部屋の隅に腰をかけて聞き耳を立てていた。

 鈴木大将は、長年家につとめていた女中が呉の実家に帰って家を新築し、是非に見に来てほしいということで家内を連れて旅に出、自分だけはなつかしいので呉からちょっと兵学校へ足をのばしてみたのだと言っていたが、当時閑地にあったとはいえ、こういう重臣がこの時節に果してそれだけの目的で江田島へやって来たのだろうかと、小田切は興味を感じていたのであった。

 すると、鈴木が、

「井上君、兵学校教育のほんとうの効果があらわれるのは二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」

 と言うのが聞こえて来、それに対して井上が我が意を得たように深く深くうなずいているのを見たという。

 英語廃止の問題に関しては、高木惣吉が井上から、

「英語というのは、モールス符号と同じ国際間の符号みたいなものだ。英語をやめてしまえというのは、国際間に通用する符号を捨ててしまえというのと同じで、そんな馬鹿な話があるもんか」

 と言われたことがあるそうである。

 井上のこの英断は次の校長、次の次の校長時代にも受けつがれ、入校してきた生徒は備品のC・O・D(コンサイス・オックスフォード英々辞典)を貸与されるのが例で、あの戦争中日本で最後まで英語教育にもっとも熱心だった学校は妙なことだが海軍兵学校であった。教師が生徒に戦争の話をしてはいけないという学校も、もしかしたら井上校長時代の兵学校だけであったかも知れない。

 この井上成美が、戦争末期兵学校長から海軍次官に転じ、米内海相終戦をもっとも強く進言する人になるのである。」

【平居コメント】

 こういうのを「見識が高い」と言う。「英語は大切」という実利的で、安っぽい話ではない。簡単に解説しておこう。

 井上成美は学校を二つのカテゴリーに分けている。一つは海軍兵学校のような、将来的にリーダーとなる人物を育てる学校で、もう一つは砲術学校・水雷学校のようにすぐ役に立つ技術を学ぶ学校である。誤解すべきでないのは、井上が、学校で実利的な、技術的なことを教えることを否定していたわけではなく、ただそういう学校と、そうではない学校があると考えていたことだ。そして、その上で、リーダー養成学校については、次のような方針を定める。

 一つは、長期的視野に立ち、すぐに役に立つ(結果がすぐに出る)教育はしない、次に、そのこととも関連するが、立身出世といった相対的・功利的な価値を求めない、そして、「識見と教養とを備えた真にジェントルメンライクの、将来何処に出しても羞ずかしくないだけの海軍将校の素地を養う」ことを目的にする。井上だって、そこが海軍兵学校である以上、学生が将来、戦争を勝利に導く活躍をすることを期していたことは疑いがない(注:同じ作者の『井上成美』によれば、井上は、敗戦後のことまで考えていたようではある)。しかし、その上であえてこれらのように言うのは、そのように「大木」を育てることが、結果としてより一層戦争のリーダーとしても力を発揮し得ると考えているからだろう。もちろん、このことは海軍将校だけに限った話ではなく、海軍将校に匹敵する各界のリーダー全てについて言える、と考えていただろう。結果、井上は対米英戦下で英語教育を手放さず、普通学の充実を説き、戦地帰りの将校による戦争の話を禁ずるという、一見、全く常識にも利益に反する道を選ぶ。

 私などは、実に素晴らしい、エリート教育というものは正にこうでなくてはならない、と思う。目先の利益ばかりを考えている人間は、大局的な判断なんてできっこないからね。だが、そのように思いつつ、これを今の高校教育現場に置き換えてみると、その現実に愕然とする。県内で一二を争う「名門校」ですら、目指すのは有名大学進学者の数を少しでも増やすことであり、そこで行われているのはそのためにどうすればよいかという施策の数々である。上の海軍兵学校と重なるところは何もない。井上の言う「丁稚教育」を行う「砲術学校水雷学校等の術科学校」と全く同じだ。恐ろしいのは、それでも、その卒業生が、自分たちを「名門」の出身だと思い、やがて世の中でリーダーシップを発揮しようとしかねないことである。

 井上時代の兵学校で学んだ学生が、その後、海軍が解体されてしまったとはいえ、社会でどれほどの人材としてリーダーシップを発揮したのか分からないので、むやみに海軍兵学校賛美に陥るのもまずいのだが、これらを見比べながら、リーダーを養成するとは何をすることなのかは、すこし真面目に考えた方がよさそうである。

(ちなみに井上成美は、偶然ではあるが、その県内で一二を争う「名門校」の片方に入学し、別の片方を卒業したという変わり種である。何かの縁。いや、皮肉な関係と言った方がいいかも。)