古典の作文と中国ギョーザ事件



 世の中で事件が起こるたびに、それに対する騒ぎの大きさ、特にマスコミの姿勢というものを、私はたいへん苦々しく思いながら見ている。少なくとも、悪意のない事件・事故については騒ぐべきではないし、人間にしてもシステムにしても、間違いは絶対にゼロには出来ないのだから、人間というものが元々持つ不完全さを遙かに上回る異常な頻度でトラブルが起こるのでなければ、騒ぐことによって人間同士が不信に陥ったり、気分が落ち込んだり萎縮したりするというデメリット、愉快犯というか、便乗して騒ぎを起こしたい人が生まれるデメリット、そして、次にいつ起こるか分からないような事件のために、「対策」と称して日々大きなエネルギーを費やすことのデメリットの方がはるかに大きい、と思う。

 さて、今をときめく話題は、中国で作られた(と思しき)毒入りギョーザである。この事件と、それに対する社会の反応を見るにつけても、勉強は真面目にしなければ、と思う。突飛に聞こえるかも知れないが、ニュースを見ながら、諸君が古典の授業で単元の終わりに書く作文を思い出すのである。

 今回の事件によって、中国の食品に対する不信感が強まり、中国製品が店頭から排除されたり、学校給食で中国産品の不使用を決めたり、といった対応が取られているという。しかし、果たして、問題のギョーザは「中国」をどれだけ反映しているのであろうか。おそらくは、特定の工場で、特定の日に作られた製品に、特定の人物が毒物を混ぜたというだけで、日本で起こっても、アメリカで起こっても不思議のない「事件」であった。だから私は、危険なのは「あのギョーザ」であって「中国のギョーザ」ではないと思っている。個別の事例を一般化してよいかどうかは、慎重な上にも慎重でなければいけない。諸君だって「一高生は」と一括された中に入れられてはたまらん、という場面はあるだろう。

 諸君の古典の作文には、「昔の人は」という言葉が多く登場する。今までにも何度か、私はまとめの作文集を配りながら、「そういうこと」をしたのは本当に「昔の人」なのか、「その作者」なのか「その登場人物」なのかはしっかり考える必要がある、と言ってきた。特に諸君のような、古典をほとんど読んだことのない人にとって、「昔の人は」というくくり方は、思考停止をもたらす危険な一般化なのだ。

 今回のギョーザ事件で「中国産の食品は」と言う人は、古典を読んだ時すぐに「昔の人は」と書く人であろう。世には愚かな人が多くて困る、という思い上がった愚痴ではない。私はこうして、一見何の関係もない勉強も、社会を冷静に見つめ、考えるトレーニングとして生きて来ることに感動を覚えるのだ。学べ、若人!