医療事故裁判の難しさ



 8月は63年前に終戦を迎えた月であって、それに関する様々な特集記事・番組を見ながら、人間の歴史と現代社会のあり方について思いを致すというのが私の恒例だ。

 だが、今年の夏、私がひときわ注目していたのは、昨日判決の出た医療事故裁判であった。これは、マスコミでも非常に強い関心を持って、様々な事前報道を行っていた。

 病院、特に手術室などというところは、とても閉鎖的な場所なので、医師がどんな初歩的なミスで患者を死なせても、それをごまかすことは難しくないようにも思う。医師がその状況に甘えていい加減なことをするのは困るが、かといって、一瞬一瞬重大な判断が求められ、それがマニュアルだけでは対応しきれず、従って、どうしても事故を完全になくすことは不可能であることも想像の範囲だ。様々な失敗の上に医師が育ち、医学が進歩してきたのも確かだ。となると、今回の裁判は、どうしても、医療とは何か、医師は本来どうあるべきか、という哲学を含む、広くて深い問題となる。

 判決は「無罪」となった。いいとも悪いとも私には言えない。同じ事故を起こしても、「あいつだったら事故を起こしても不思議じゃない」と言われる時と、「あいつが事故を起こすのだから、よほど難しい事態だったのだろう」と言われる時がある。結局は、K医師の日常の姿や人格を知らなければ云々できないし、だとすれば、裁判という、客観性・普遍性が求められる作業が、このような事態に対してどれだけ有効であり得るのか、という疑問も生まれてくる。