ドイツ訪問記 第一話(いきさつ)



 予告通り、8月4日から14日までの11日間、ドイツへ行った。もっとも、お金をけちった結果(北回りと一人10万円も違う!)、成田発、バンコク経由の南回り便を利用することになり、往復にほとんど3日かかったので、実質的には8泊8日に過ぎない。

 ドイツを訪ねたのは24年ぶり2回目だが、国名はどちらも「ドイツ連邦共和国」ながら、24年前は他に「ドイツ民主共和国(通称:東ドイツ)」なる国があって、当時の「ドイツ連邦共和国」は一般に西ドイツと呼ばれていたから、同じに扱ってよいのかどうかはよく分からない。EUが誕生し、ユーロが使われるようになり、環境問題が深刻さを増すなど、ヨーロッパや世界の状況もがらりと変わった。しかも、その時は真冬で、生活費1日10ドル(ただし、当時1$≒230円)を目標とする学生の貧乏旅行だったから、自分自身の状況も全く違う。

【いきさつ】

 私の両親は定年退職後、丁度10年前の1998年に、3週間余りのニュージーランド個人旅行をした。その時、行く先々で繰り返し出会ったドイツ人の新婚さん(アルブレヒト夫妻)がいた。お互いにその人柄に非常に惹かれる所があったらしく、特に私の両親は英語もほとんど出来ないのに仲良くなり、片言の手紙や贈り物で付き合いが続いてきた。私の母などは、写真でしか見たことのない彼らの幼い二人の娘を「ドイツの孫」と言い、もう一度彼らには会いたいと折に触れては言っていたほどである。

私の父は、5年半ほど前に脳溢血で倒れ、一命は取り止めたものの、以後、坂道を転がり落ちるように体と脳の機能が低下し、この1年は寝たきり、認識力ほぼゼロの状態が続いていた。この間、母が必死の介護を続けてきたが、遂にそれが不可能となり、今年の5月には某介護施設に入所することになった。

母の生活に余裕が生じたのを機に、私はお金を出してあげるから、ドイツのアルブレヒト家へ行ってきなさいと言ったが、母の返事は「そんな、一人でドイツまでなんかよう行かん」(母は京都出身)であった。当然と言える。アルブレヒト夫妻に会うためには、彼らに来てもらうという手もあるし、彼ら自身にも、日本という所に住む、なんだかよく分からないけど親しみを感じる老夫婦と再会したいという気持ちはある、と思われるのだが、彼らには幼い子供がいて、それを実現させることは容易ではない。

 思えば、今年は夏季課外の終了がいつになく早く、従って部活の合宿も早く終わらせられるし、3年生の担当ではないし、頑張れば10日余り連続の夏休みを取れるかも知れない。しかも妻は育児休業中で、家庭のことも比較的任せやすい。来年は、一高にいれば3学年で夏休みを取ることは望み薄、転勤すればどんな生活になるか見当が付かない。母の衰え(老化)も目立ってきて、今後のチャンスを窺っていたら、結局、アルブレヒト家の訪問は実現しないかも知れない。かくなる上は、我が人生で最初で恐らくは最後であろう母との二人旅をして、アブレヒト家まで母を連れて行ってやろうか、と思ったのが6月の頭であった。

 「8月5日頃から訪問するとすれば都合が付くか?」というメールをドイツに送ったところ、すぐに「大歓迎だ、空港まで迎えに行く、何日でも家に泊まってくれていい」という返信があった。私は、無理にでもまとまった夏休みを取る決断をし、飛行機を確保した。

「何日でも」と言われても、そうはいかない。私が付き添っていたとしても、所詮お互いに外国語(英語)による会話では、完全なコミュニケーションが取れるわけではない。再会の喜びで楽しく過ごせるのは、2泊か3泊がいいところだろうと思った。しかし、南回りで片道20時間、時差7時間(ドイツはサマータイム実施中)という遠隔地を現地2〜3泊で往復するのは私でも嫌だ。まして、母は70歳にもなっているのである。

 24年前、私は東ドイツへ行かなかった。共産圏とは言っても、入国許可を取ることそのものはあまり難しくなかったが、そのためには確か1日当たり25ドルだったかの強制両替という制度があった。東ドイツ政府は、本当は自由主義諸国からの人間は入国させたくない。しかし、外貨が欲しいから入国の許可は出す。外貨の獲得が目的なのだから、あまり切りつめた旅行をしてもらっては困る。だから、1日当たりの使用最低限度額を25ドルと決めて、絶対に外貨への再両替が不可能な形での両替を条件としていたのである。この制度は、1日当たりの金額こそ違え、当時チェコスロバキアブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国では当たり前のように存在したし、世界のその他の発展途上国にもあり、そして現在でもミャンマー等で生き残っている。前に書いた通り、当時の私の生活費は、1日10ドルであった。多くの人に「そんな金額でヨーロッパが旅行できるの!?」と驚かれたものだが、それでも「インドや中東に比べると、やはりヨーロッパは高くつくなぁ」と、ぼやきながら旅行していた。そんな私にとって、1日当たり25ドルは目の玉が飛び出るような金額だった。私は東ドイツ訪問を断念した。

 ドイツでの滞在を1週間程度とし、アルブレヒト家滞在の残りの数日をどうしたいか(どこへ行きたいか)と母に尋ねたところ、どうしても行きたいという所は具体的にないが、お城は見たい、と言う。母は、10年あまり前に、娘(私の妹)に連れられてドイツ南部を旅行したことがあった。旧東ドイツへ行ってみたかった私は、これらの要素を多少自分の都合のいいように利用し、ヴァルトブルグ城(「ブルグ」はドイツ語で「城」の意味なので、本当は「ヴァルト城」と書くべきだが、日本の本では一般に「ヴァルトブルグ城」と表記しているのでそれに従う。世界遺産)へ連れて行ってやろうと言って、J・S・バッハの生家のあるアイゼナッハを訪ね、サン・ス−シ宮殿(世界遺産)へ連れて行ってやろうと言って、壁のあった街ベルリンを訪ね、その途中にあるからと言ってヴァイマール公国の首都、ドイツロマン派の中心地ヴァイマールと、森鴎外他が留学し、バッハがカントール(教会の音楽監督)を務めていたライプツィヒを訪ねるという欲深で虫のいいおよその計画を立てた。

 誤解してはいけない。今回の訪独の目的は、あくまでもアルブレヒト家の訪問と、母の慰労である。そのことは重々肝に銘じていた。私にとって気が重かったのはアルブレヒト家である。人の、まして言葉が意のままにならない外国人の家などに泊まるのは、非常に気を遣う、精神的に疲れることに思われたのである。既にいろいろな所でいろいろな物をさんざん見てきたという自負のある私にとって、いかに初めての場所をも含むとはいえ、今更ドイツ、もしくはヨーロッパに、新鮮な、刺激に満ちた物があるようにも思われなかった。

 ところが、この9日間は、予想外の発見と驚きに満ちていた。勉強になった、楽しかったと手放しで喜ぶよりは、この歳になって口をあんぐり開けて方々を見て歩いたことに、気恥ずかしさを感じるほどである。悔しいような気もする。

 それでも、せっかくなので、以下、私が見聞きしてきたことについて若干のレポートを書いて、諸君に還元しようと思う。ただし、これは、あくまでも私が僅か9日間の滞在で見聞きした、まさに「群盲象を撫でる」のレポートである。くれぐれも、客観的真実だなどとは思わないように。                         (8月25日に続く)