勉強二題



【1】12月4日に、東北大学の先生による学部・学科説明会(法学部)に出た。この中で先生が、『三太郎の日記』や「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というヘーゲルの言葉を、多分、或いは当然、高校生は知っているはずだという前提の語り方をしていたのが印象的だったし、その時、おそらくはそれにらについて全く無知であろう一高生が何を感じていたか、とても興味を持った。知らなくてもいいのである。ただ、あのような話によって、自分の知らない世界が存在することを切実に感じ、知らない世界への憧れを抱くこと。勉強する上で、これはとても大切なことである。「そんなこと、わしゃ知らん」と開き直る人には、学問は決して見えてこない。

【2】3年生は通常の形態の授業を終え、主にセンター対策の問題演習に取り組んでいる。3年生の担当になると閉口することのひとつは、とにかく教科書ではなく、問題演習をやって欲しいという生徒からのプレッシャーの強さだ。私達にしてみれば、土台がしっかり出来ていれば、自ずから問題は解ける。仮に「問題の解き方」なるものが独立して存在したとしても、そんなことは、土台のできている人には1ヶ月もあれば十分身に付くことだし、土台のできていない人には、結局最後まで身に付かないものなのである。ともかくも、そのような両者の妥協点として、11月に入った頃から「演習」が始まる。それから考査を挟んで1ヶ月、「飽きた」「ダレてきた」という声が双方から聞こえて来るようになった。入試を意識すると、問題演習をやった方がよい、否、やるしかない、という気持ちになるのは分からなくもない。しかし、本質からはずれたことは、この程度のことでも長続きしにくいものなのだ。ここでも結局「理想(本質)は長く、現実は短い」のである。