真価を試される時・・・共学化の決定



 この1ヶ月、思わぬ迷走を続けた共学化問題は、金曜日、確か4回目(!)だったかの最終決定があって、実施が決まった。

 最後までよく分からない議論であった。学校はどうあるべきか、なぜ共学なのか、ということについての掘り下げた議論はなく、最後に至っては、今更止めたら混乱する、ということで実施となるのだから、今時の高校生は議論が出来ない、などという権利は、大人にはない。

 さて、今までも何度か愚痴っぽく書いてきたが、私(達?)がDH(一律共学化断固反対委員会)に何となく冷たいのは、(1)共に動くOBも含めて、一高の平和だけを考えている狭量でエゴイスティックなナショナリズムを感じる、(2)勉強量が決定的に不足しているのに、自己主張ばかりして、今の「楽しい」環境を維持しようというのはむしろマイナスだ、ということによっている。しかし、私が、今時の高校生が、現実、若しくは政治というものと直接向かい合い、関わる経験が出来たことはすばらしい、と評価してきたのも、これはこれで本当だ。

 問題は、共学化が決まったここからである。「あ〜あ、どうせ共学になるんだ」「もう終わりだ」と思ってしまったのでは、一律共学化反対運動は、やはり偏狭な一高ナショナリズムだったのだ、という評価を下されるであろう。諸君は、今回の活動を通して、学校、教育のあり方はどのように決定されるべきなのか、という問題と出会ったはずなのである。例えば、教育委員会とは何なのであろうか、教育委員長と教育長はどう違うのであろうか、現政権を支える人材を養成するのが学校の使命なのではなく、批判精神を持ち、よりよい社会のあり方を考えられる人物を育てるのが教育の使命だということと、お上が学校のあり方を決めるということはどう関係するのであろうか、更には、県が「特色ある学校作り」を訴えることと、今回のような一律化はどう関係するのだろうか・・・?

私は諸君が、今回の貴重な体験をきっかけにして、市・県・国それぞれのレベルで、よりよい教育(学校)とはどうあるべきかを考え、行動してくれることを期待する。と同時に、僅か1年後に迫った共学化へ向けて、一高内でどのような条件整備をしていくかということも、今後諸君が人生で大きな変化に直面した時のために、またとない素晴らしい練習問題だと思う。