当事者だけが持つ力



 昨日、ビルマ政治亡命者M・A氏の特別講義を4クラスで行ったが、どのクラスも態度はすこぶる良好、質問も出て、僅か50分の「概説」に過ぎなかったが、多少貴重な見聞は広まったのだろうと思う。どんなことでも、その体験の当事者が語る時と、それ以外の人が伝聞で語る時には、人を動かす力において大きな隔たりが生じる。氏の話は、見方によってはひどく大雑把で平凡なものだが、その話が人を動かすとすれば、その当事者性に原因がある、と私は思う。一度こういう話を聞くと、TVや新聞でミャンマーのニュースが自然と気になり、そして東南アジア、更にはアジア、そして世界へと知見が広がってゆく。話は聞いた時、その内容だけに価値があるのではない。

 ところで、私が、今回の彼らの来訪で最も驚いたのは、2年前に来日した奥様が、日本人の家に入ったのは初めてだ、と言ったことだった。聞けばM・A氏も、私の所以外には、旭川で世話になった先生を一度訪ねたことがあるだけだという。彼らの生活というのは、日本に僅か150人ほどしかいないミャンマーからの政治亡命者の中だけで完結しているらしい。これは、当のビルマ人にとっても、日本人にとっても、決して幸せなことではないように思う。近くにいても知り合う機会がなく、従ってお互いの理解は進まない。東京にはおびただしい数の外国人が住んでいるけれども、ミャンマー以外の国籍の人々も似たような状況にあるとすれば、国際化とか国際理解というのは、現実には難しいことである、とつくづく思った。


 【About English】 M・A氏が、努力して日本語を使おうとすると、かえって分かりにくくもなってしまうが、一方、彼の語る「英語」の分かりにくさに驚いた諸君も多かったに違いない。本当に分かりにくい。一応、通訳らしきことをしていた私も、とても一発勝負ではムリというのが分かっていたので、前夜、リハーサルというほどではないが、いろいろ単語チェックはしていて、その時、「サウイー、イジャ」がSouth East Asia、「バーリンワー」がBerlin wallであることが理解できるでに数分を要したほどである。

 しかし、よく考えてみると、諸君が今後、国際社会に出て行く時に耳にする英語が、現在リスニングの試験で耳にするような模範的なものである可能性はむしろ少なく、特に、アジア、アフリカといった場所では、氏のような言葉が「英語」なのだ、と観念する必要があるだろう。プールでばかり泳いだ結果海では泳げない、ゲレンデスキーは完璧だが山スキーは出来ない・・・言葉についてもそんなことへの問題意識を持つことが出来れば、今回のレクチャーの副産物として、なかなかよろしい。

(注:M・A氏はビルマ人であってミャンマー人ではない。なぜこのような言い方をするのか、調べてみよ。)