最後には「愛」



 考査の中日であった先週の日曜日、今春定年で退職したK先生という方の退職祝いの会に出席した。私は初任の学校で同僚だったというのが最初の縁で、自宅が近かったこともあって、以来20年余りに渡って、公私共々お世話になった。およそ、世の中で最も頭の上がらない人の一人である。教育者としての情熱と力量は、誰もが認める県内でも第一級の人物で、そのため、最後は現場(学校)ではなく、多くの人々に懇願されてやむを得ず就任した高等学校教職員組合という労組の執行委員長であったのは、残念でもあり気の毒でもあり、申し訳なくもあった。

 3時間を超えた会の最後に、K先生は挨拶として若干のお話をされたが、その中で、自らの教師生活の原点として、K先生が初任として赴任した今は無き某分校について語った。

 「赴任した学校は、町内の人々までもが学校とは認めないような学校だった。ようやく探し当てると、台風で倒壊した建物を、その材料で再建したもので、支え棒がしてあった。高校らしい設備は何もなく、あるのは僅かに教室と職員室と理科室だけ。そこに、悪いことをしたり、勉強しなかったりすると、「分校しか行けないぞ」と言われながら入ってきた生徒がいて、とんでもなく荒れていた。

 教室がほこりっぽく、生徒が首筋をかゆがるので、調べてみると、天井裏に大量の鳩が住み着き、糞が厚く積もっていた。県に散々交渉をして、ようやく50万円の予算が付き、天井に自分たちでベニア板を張ったが、その一週間後、宮城県沖地震で校舎はつぶれた。言っても県は新しい校舎を建ててくれないので、あちこち場所を借りながら授業をした。町の議場を借りたこともある。やがて、質素なプレハブ校舎が建ったものの、廃校が決まり、全ての生徒を見送った後、自分が校舎に鍵を掛けて出た。・・・」

 二つのことを思う。この話は、1970年代前半の話であるが、当時もそして今も、高校ごとの待遇の不公平は存在する。弱者ほど大事にされなければ浮かばれないのに、実際には強者ほど大切にされる。一高を見ても、建設中の二華高校を見ても、県の扱いは信じられないほど手厚い。諸君は、このことについて無自覚だろうが(←これは問題だ!)、格差はそうして更に拡大してゆく。

 もう一つ、K先生は、この体験を自らの原点とし、そのような劣悪極まりない環境で、自分が育てられ鍛えられた、と考えておられるようだが、劣悪な環境があれば誰でも育てられ、鍛えられるわけではない。おそらく、多くの人は、早く自分だけはその場所から逃れたいと考え、都市部の恵まれた学校に異動して、その学校のことを忘れるか、ノスタルジーの対象とするに違いない(私もそんな一人かも知れない)。そのような悪条件において、生徒を最後まで見捨てず、その学校をよくするために奮闘し、自らを高め鍛えたK先生の心のあり方は、決して平凡ではない。

 現代文の授業で、南北問題とどう向き合うかということに少し触れた。南北問題は、必ずしも地球規模の問題ではなく、私達の身近なところにも存在する。そして、それに直面した時にどう動くか、そこに人間の真価というものが間違いなく露呈する。「多様な価値観」とはよく言われるが、人間が最終的に満ち足りるために必要なものは多様ではない。一寸臭い言い方だが、それは「愛」だ。K先生が偉大であったのは、豊かな「愛」を持っていたからに他ならない。