里山の楽しさと教訓



(11月29日「天声人語」引用)

 冒頭にでかでかと掲げるほどのものでもない。二人の碩学の死にちなんでのコラムだが、例によって訃報、というものでもない。ただ私は、「里山」という言葉の歴史をこのコラムで知り、驚いたのである。なんという温かさと静けさと物寂しさを含み、懐かしさを感じさせる言葉だろうか。日本の風土に根ざした、最も古い言葉だと言われても私は驚かない。なのに、生まれてから50年に満たないとは!と同時に、「里山」にしても「森林生態学」にしても、名付けられることによって実態が明瞭となり、広く認識されてゆくという言葉の働きをよく物語っていて面白い。

 昨日、我が山岳部は、この時期に突如入った新入部員の熱烈歓迎と、冬山へ向けてのトレーニングとを兼ねて大和町の七ツ森という所へ行った。典型的ないわゆる「里山」である。生憎、土曜日とうって変わって寒く、強い西風の吹くコンディションだったが、分厚く積もった落ち葉を蹴飛ばしながら、初冬の里山風情を満喫することが出来た。

 ところで、里山奥羽山脈と違って地形が小さく複雑で、しかも人手が加わるために変化が激しく、特に道については地形図と現場の不一致が多いという特徴がある。つまり、行ってみないと分からない、という要素が多く、従って面白い。蔵王や船形山よりも、よほどクリエイティブな登山が出来る。昨日も、生徒はこの小さな地形と踏み跡もどきにだまされて、何度も道を間違えた(うち一度は、私もその間違いに気付いていなかったのだが・・・)。後ろから付いて行きながら、なぜ彼らはこんなに道を間違えるのだろうか、と考えていたところ、一つのことに気が付いた。それは、単に地形図が読めないというだけではなく、目の前数メートルばかりを見ながら歩いているということだ。う〜ん、これは教訓的だなぁ。私の頭に浮かんだのは、「理想は長く、現実は短い」という有名な(?)格言であった。

(注:最後の格言は私が「芸術は長く、人生は短い」という有名な格言をもじって作ったもの。理想を追求する精神、そうして身に付けたものは長く、様々な場面で生き続けるが、現実への対応はその場限りである、よって、若者はもっともっと理想(本質と言ってもよい)を追い求めろ、という意味で頻繁に用いられる。詳しくは、このブログの2009年3月3日の記事参照)