地震より恐いもの



 ハイチ、チリと大きな地震が続いた。ハイチは知らないが、チリは昔、わずか3週間ながら旅行したことがある。今回の震源地に近く、たびたび名前の登場するコンセプシオンにも1泊した。海が見られるかと思って行ったのに、街の中心から海岸までは非常に遠く、結局海にはお目にかかれなかった。そこに津波が押し寄せたというのだからすごい。

 地震は正に「天災」であり、それについてどうこう言っても始まらないのだが、私にとって心痛むのは、その後の略奪騒ぎである。生活物資に事欠く現状があるのは分かる。しかし、「人を殺してもいいよ」と言われても、法の有無に関係なく、大抵は実行など出来ないのと同様、「じゃあ、かっぱらってくるか」とはなかなかならないものだと思っていた。

 チリは旅行するには最高の国であった。南北5000キロ、海岸から標高6900mまでという国土は変化に富み、食べ物が美味しく(特に海産物は日本よりも豊かなくらい)、生活は適度に文明化されており、宿泊も移動も快適で、そしてなんと言っても、人が穏やかで善良であり、治安がよいというのがよかった。だから、今回の略奪報道に接した時にも、「えっ!あのチリで?」と驚いたわけである。あのチリでもとなると、状況次第では、日本も含めたどこででもそうなり得るということなのだろう、と思う。

 「あらゆる組織の崩壊は、内部崩壊である」というような言葉を聞いたことがある(「内部にも原因がある」だったかも知れない)。一つの集団が、外圧のみによって崩壊するということはなく、たとえ外圧が加わったにしても、それに耐えられない理由が内部に生じているからこそ、集団は崩壊するのである。私もそう思う。太平洋戦争当時の日本を思い浮かべてみるとよく分かる。そして、このことは国家や学校といった集団だけではなく、個人についても言えることだし、更には「人類」というような拡張も可能なのではないだろうか?。

略奪や暴動を生むような社会的混乱というのは、なにも地震のような天災に限らないはずだ。例えば、予想される最も深刻な事態として、石油が枯渇して人々の生活が行き詰まってきたらどうなるだろう?人類は、大地震があろうが、石油が枯渇しようが、その程度のことであれば、決してそれを直接の原因として滅亡したりなんかしない。人類の滅亡ということがあるとすれば、それは人類の心が破綻を来たし、人が人を傷付け合うことによってのみ現実化するのだろう。環境問題も、これに類する内部崩壊である。それを克服する方法があるのかないのか、私は知らない。人の世は難しい。