読書は落とし穴?



 先週末、土曜日の夜、私は中学時代の恩師A先生を訪ねた(私は宮城県の中学校に通っていた時期もある)。1月の末に、「寒中お見舞い」を差し上げたところ、どうも元気がないようで心配だ、と電話を下さったので、では一度近況報告に伺います、と言って参上したというわけである。

 私自身の近況もお話ししたが、4年前に退職されたA先生が、最近、福沢諭吉を一生懸命読んでおられるということから、話は福沢諭吉から丸山真男(『「文明論之概略」を読む』という福沢に関する名著がある)へ、日本の政治へと広がって行き、4時間余り飽きることがなかった。

途中、先生がふと「自分の教師としての体験や教育論を書き残せと言ってくださる方もいるが、福沢を読んで愕然とした。自分がもっと早くこれを読んでおかなかったことを激しく後悔すると共に、これを知った後、自分には書けることなどない」とおっしゃった。私も、福沢諭吉という人物を評価すること人後に落ちないつもりだが、それはちょっと違うのではないかと思い、以下のようなことを申し上げた。

「私は、本の価値というものについて懐疑的です。いくら野球の解説書を読んでも、それだけで野球が上手になったりはしません。だとすれば、思想とか観念とかいうことについても同様のことが言えるのではないでしょうか。人は往々にして体を使う野球と、頭を使う思索を分けて考えがちです。しかし、本当にそれらの間には違いがあるのでしょうか?人は、自分の体験に基づいて自分で思索した分しか「本物(真実)」を得ることが出来ないと思います。本を読んで何かが分かったような気になるのは、錯覚と言うべきであり、しかも、それは満足感・優越感を伴うという意味で非常に危険な錯覚でしょう。読書は、むしろ落とし穴なのではないでしょうか? 先生が体験に基づいて得たことは、福沢から得るものとは違う独自の価値があるはずです。」

自分の体験に基づいて考えたことが福沢と一致したとしても、では、最初から福沢を読んでそれを得ればよかった、というのは間違いだと思う。本の内容は、絶えず自分自身の体験と思索に基づいて埋められていかなければならない。その意味で、人は本を読んで成長するのではなく、自分が成長した分だけ本が読めるようになるのである。

 読書に価値があるとすれば、表面的な浅いものとはいえ、新しい知識の得られることが単純に楽しいからであり、自分が主体的に生き、考える上での刺激になるからだろう。諸君は今から大学で学ぶが、机上で得た知識を不当に高く評価してはいけないと思う。それによって、逆に「本物」から遠ざかることへの自戒は忘れてはならない。

 A先生は情熱的な、肉体派の教師であった。福沢の考えを借りなくても、彼が実践の中で得たものは、私にとって十分に偉大である。