民族の誇り・・・朝鮮人学校の無償化について



 来年度から高校の授業料を無償化するという政府方針の下、朝鮮人学校をその対象にするかどうかでもめているが、対象外となりそうな雰囲気が次第に強まってきた。私としては、何とも「情けない」、若しくは「恥ずかしい」ことのように思われる。

 それは北朝鮮政府と朝鮮人学校との関係付け方が短絡的で、朝鮮人学校の目的とか、個人と組織の関係とかについての掘り下げた考察が見られないからだ。

 まず、前者について。私は、かつてこのブログの中でも触れたことがあるように、日本人の中では朝鮮人学校との付き合いの深い人間である。その私の理解として、朝鮮人学校は政治思想教育の場ではなく、民族教育の場だ。つまり、北朝鮮政府のイデオロギーを生徒に注入し、北朝鮮政府の支持分子を日本にばらまく、果ては日本を内側から切り崩す、などという事は考えておらず(当たり前?)、かつて日本が朝鮮を植民地化したということに関わる何らかの事情によって来日し、戦後の混乱や朝鮮戦争等の問題もあって、帰るに帰れなかった朝鮮人の方々が、自分たちの子供が日本での生活の中で、朝鮮民族としての自覚と誇りを失ってしまうことを危惧して守ってきたのが朝鮮人学校だと思う。だから、彼らが朝鮮人学校で教えているのは、朝鮮の言語であり、芸術文化であるが、日本人の学校でも、たくさんの外来文化を教えているのと同様、基礎的教養などというものは地球上のどこでも大差がないのであり、従って、朝鮮人学校でも、あえて特徴を探せば朝鮮語や朝鮮の芸能を教えているとしても、教科内容の大部分は日本人の学校と同じである。

 民族の自覚と誇りが、果たして時代遅れな、若しくは閉鎖的なものかどうか?私はそうは思わない。私だって、外国を歩いている時は、往々にして自分が日本人であることを自覚し、日本人として恥ずかしいことは出来ない、という考え方すらする。かつて、加藤周一は次のように書いた。「日本の庭つくりは、日本の自然の美しさを、その究極まで、自然の本質そのものの美しさまで究めなければならぬ。そのような極みにおいて、最も特殊な世界は最も普遍的な世界に通じるのである」(『日本の庭』)。徹底的に日本的な美を追求した時、最後に生み出されるものは世界中の人に理解され得る普遍的な美へと高まっている、という認識は深い。この論法によれば、民族のアイデンティティをとことん大切にした時、そこに現れるのは世界で通用する人物であろう。そもそも、とことん自分にこだわる人間は、必ず人を尊重することを知るものである。少なくとも私の知る、民族教育に携わる朝鮮人学校の先生はそんな立派な方々だ。地球上には民族紛争というものが絶えないのは確かだが、むしろそれは民族の未熟によって起こるのではなかろうか。

後者について。日本人が日本の学校に入るのに比べると、朝鮮人の日本人への同化が進んでいる現在、朝鮮人朝鮮人学校に入るのは「あえてする」強い能動性が必要だ。しかし、子供を朝鮮人学校に通わせる親が、たとえ北朝鮮政府と朝鮮人学校に結びつきがあったとしても、その思想に全面的に賛成しているなどということはない。それは、彼らが民族教育を求めているという前段とも関係し、それを求めるために、多少の政治的影響はあっても(どの程度か私にもよく分からない。あるのかな?)、我慢または無視する、といった感覚だろうと思う。北朝鮮政府の思想や行動をどれほど知っているのか、という問題もある。実際、北朝鮮政府が「拉致」を認めた時に、日本人が憤った以上の強さで、朝鮮人学校の先生達は衝撃を受け、激しく動揺していた。ほとんど全ての日本人は、その気候風土や言語を始めとする文化に対する親しみと、それらによって生まれる安心感から、亡命することなく日本に住んでいるのであって、日本政府の考え方に全面的に共鳴して住んでいるわけではない。むしろ、政府の言動を以て、おまえもそう考えているのだろう、などと言われたのではたまったものではない、と思う。なぜ、そのことを北朝鮮朝鮮人学校にスライドさせることが出来ないのだろうか?

朝鮮人学校→北朝鮮→拉致→全否定という短絡的な考え方は、本当に恥ずかしい。冷静な判断をして欲しいものである。