ある熱い手紙



 例年、新年明けのこのプリントでは、私に来た年賀状の中から、諸君が何かを考える材料になりそうなものを紹介したりしてきたが、今年は、こぎれいなばかりで内容のないものが多く、あきらめていたところ、先々週末になって、下のような手紙が届いた。差出人は、元仙台朝鮮高級学校教諭。20年ほど前に、日朝高校生交流会なるイベントを開いた時に、私と彼が双方の大人側代表者として出会い、お互いの人間性に惹かれるところあったらしく、彼がその後→東京→大阪と異動した後も、付き合いが続いてきた。「年賀状」を日本の習慣としてあえて受け入れないということなのか、私が年賀状を出し、彼がその後1ヶ月くらいして手紙を寄越す(今年は早かった)というのが、二人の間で暗黙の了解(?)だ。私は彼の、絶対に損であるにもかかわらず、彼自身の信念と誇りに基づく生き方(在日三世でありながら帰化せず、日本の社会で北朝鮮人として生き、子供を育て、民族教育に携わる)を貫き、仲間を大切にするという所が大好きだ。しかし、この20年間、彼の親がどんな人かなど、聞いたこともなかった。今回初めて、彼の父親について僅かばかりのことを知り、そして、この人は父親の背中を見ながら生きてきたのだ、と思い、納得した。

 「平居さんの一年が凝縮された年賀状、いつも楽しく読ませていただいております。ありがとうございます。奇しくもご長男のお名前が我が家の末っ子の長男の名前と似ており、これも何かの縁かと妻とも話しております。

 ご病気も治癒されたということでなによりです。

 私はといえば、昨年6月に癌を患っていた父が他界し、長男としての責務を何とか果たし、残務処理に追われ、このごろやっと喪失感らしき感情が芽生えだしたところです。

 朝鮮総連の専従活動家として、生涯在日朝鮮人の権利擁護のために奔走した父でした。

 仕事の面では大阪の高級学校勤務二年目をあわただしく駆け抜けた、というのが実感です。

 担任は持っていませんが二年連続3年生を担当し、進路指導と授業の準備に明け暮れる毎日でした。昨年は修学旅行の実務を担当したおかげで日本政府の、朝鮮に対する制裁措置の「恩恵」をまともに受けました。160人あまりの学生と教員の、航空機による出入国手続き(「朝鮮」「韓国」「日本」籍でそれぞれ手続き内容が違ってきます。)には正直辟易しました。関空─大連─瀋陽ピョンヤンと飛行機を乗り継いでやっと目的地です。そのようにして、近くて遠い祖国の大地を踏みしめた学生たちの感慨はひとしおだったと思います。しかしながら「マンギョンボン号」による渡航再開が切実です。

 平居さんはまだ断酒されているのでしょうか。私はとうとうまる2年の断酒(一滴も飲んでいません)に成功し、案外やればできるもんだと自分自身にへんに感心しているしだいです。その代わりといえばなんですが、今流行のリターンライダーといいますか、大型バイク(1300cc)に乗り始め、隙を見てはテントとシュラフを積み込んでツーリングに出かけています。昨年もいろんなところに出かけました。特に印象深いのは映画『男はつらいよ』の寅さんに触発され島根の温泉津から津和野をめざした旅です。3泊4日の自由を満喫してきました。今年の夏はあわよくば北海道か東北地方にでもでかけようかと算段(画策)しています。そのおりはなにとぞよろしくお願いします。

 お会いしてじっくり話したいこともたくさんあります。お身体、大切にしてください。」