『四千万歩の男』と『朝鮮大学校物語』

 最近読んだ二つの本について書いておく。「2冊」と書かず、あえて「二つ」と書くのは、片方が5巻本だからである。
 一つ目は、井上ひさし『四千万歩の男』(講談社文庫)である。こちらが5巻本。1993年刊の文庫であるが、もとは1977年から6年間かけて書かれたものである。かなり昔から父の書架にあるのが気になっていたのだが、なにしろ、文庫とは言え、本文だけで合計3254ページ、1巻あたり650ページというボリュームである。そうそう簡単には手が出せない。昨春、再び長い電車通勤を始めた時に、最初に「これであの本が読める」と思い浮かべたのはこの本だったのだが、更にそれから1年以上手を出す勇気が出なかった。5月半ばから6月末まで、1ヶ月半かかった。それでも、測量日誌を始めとする古文の引用は、さほど丁寧に読んでいない。
 伊能忠敬が50歳を過ぎてから学問を始め、地図作りを始めるのは55歳からだ、というのは有名な話である。少なくとも、その作業が始まって以後、全国の地図が完成するまでの経過を小説仕立てにしているのかと思ったら、3254ページも読んで、ようやく全部で10回行われる地図作りの旅のうち、2回目の半分が終わったところで終了している。作者は最後まで書きたかったようで、比較的若くして死んだ井上でも、まだ17年の時間が残されていたにもかかわらず、結局その後が書かれることはなかった。
 それはそうだろう。私はかなりノンフィクションに近い小説だと思って読み始めたのだが、実際には旅先で起こる奇想天外な事件の数々と、それに対する伊能の鮮やかな対応が書かれた推理小説もどきの作品である。ここまで書いただけでもよくネタ切れを起こさなかったものだと感心するほどで、この後、1万ページか2万ページも同様のパターンで話を続けられるとはとうてい思えない。それでも私は、作者の歴史についての知識とアイデアと構成力とに十分驚嘆しつつ楽しんだ。
 作者は、「人生二山説」というものを意識して、伊能という人物をテーマにしたらしい。「人生二山説」とは、文字通り、人生には二つの山がある、という考え方だ。伊能が最初の測量旅行に出発したのは、55歳の時。今の私と同じ年齢だ。今の私の実感としては、その体力よりも気力に敬服する。そんな意識も、楽しく読めた理由だろう。
 もう一つは新刊。ヤン ヨンヒ『朝鮮大学校物語』(KADOKAWA、2018年3月)である。こちらは1冊本。私は最初に7月7日朝日新聞の書評でこの本を知り、翌日、毎日新聞に出た書評も読んだ。かつて少し書いたことがあるが(→こちら や こちら)、私はこの30年近く、朝鮮人学校の先生と細々とした付き合いがある。東京都小平市にある朝鮮大学校にも、一度だけだが行ったことがある。あくまでも部外者として関わる限りではあるが、不愉快な思いなど一度もしたことはなく、反感を感じたこともない。朝鮮人学校の先生や生徒が私と付き合うことについて、警戒したり、何らかの制限を受けていると感じたこともない。むしろ、今の日本が失ってしまった人間的な温かさや純粋さが残っている場所として、好感さえ持っている。
 この小説は、在日朝鮮人である作者が、自分の体験に基づいて書いたものらしい。小説としてはとても面白い。朝鮮大学校という特異な環境の中で生きる主人公が、外部と関わる時に経験する摩擦や違和感、自由への憧れと恋のときめき。朝鮮人でありながら、価値観としては日本人に近く、祖国訪問団(=修学旅行に近い)の一員として北朝鮮を訪ねた時に作者が感じている拒否感と苦悩は痛々しい。200ページあまりの小説の中に、これら種々雑多な文化と感情とが詰め込まれているのだから、それだけで変化に富み、刺激的で退屈しない。だが、そんな材料があれば誰にでも書けるかといえば、そんなことがあるわけがない。この作品は映画監督である作者にとって初めての小説だそうだが、映像作家として細部を描写する能力を鍛えてきた成果が、この小説に表れているようだ。
 中に書かれていることのどこからどこまでが実体験で、どこからどこまでが虚構なのかは全然分からない。私が今まで付き合ったことのある朝鮮学校関係者が、作者の描くような異常な日常の中で生きてきた人だとは信じられないが、作者はなにしろ朝鮮大学校の卒業生なので、私ごときが「違う!」などと言えるものでもない。だが、作者が母校に反感を感じているとすれば、その特徴的な部分がことさらに誇張されている可能性は高いだろう。
 「東京都小平市に住んでいた時期もあったので、この小説の舞台の朝鮮大学校はすぐ近くだったはずだが、壁の中で起こっていることを想像したこともなかった。(中略)目の前にあったのに、見えていなかったものを見せてくれる著者に、素直に感謝したい」という毎日新聞の書評はお粗末である。この小説の中に描かれていることを全て事実と認識している。なまじ描写が上手であるために、組織名や人名、地名が実在するものであれば、どんな虚構を書いても、それが事実として受け止められてしまう。小説にはそういう怖さがつきまとう。よりによってそれなりに信頼度の高い全国紙の書評委員が、そんな落とし穴に落ちるのは情けない。執筆者は(市)とだけ書かれている。誰のことか調べようと努力したが、見付けられなかった。それもケシカラン。