初演者の地位・・・横山勝也の死に際して



(4月24日 尺八演奏家・横山勝也の訃報)

 訃報で「横山勝也」の名前を見つけた時、全く同時に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」という曲の名前が思い浮かんだ。気になったので、インターネットで「横山勝也」という名前を検索してみたところ、「ノヴェンバー・ステップスの横山勝也」という表現が、驚くほどたくさん出てきた。横山勝也という尺八演奏家は、確かに「ノヴェンバー・ステップス」という有名な曲の初演者なのだが、これほど切っても切れないものとして扱われてしまうと、逆に、この人は、「ノヴェンバー・ステップス」以外には、何も評価できることがないのか? などと考えてしまう。いや、ニューヨークフィルの創立125周年を記念して委嘱された、既に日本を代表する作曲家として認められていた武満の曲の初演に独奏者として選ばれたわけだから、もともと優秀な尺八奏者で、日本古来の伝統的な曲の演奏も含めて、その活動には多くの可能性があったに違いない。

しかしながら、なにしろ尺八である。西洋の記譜法でその演奏を指示することなど出来ようわけもない。聞いたところによれば、その楽譜には、言葉による指示が非常に多く、音符には音価(出すべき音の長さ)が書かれていない、更に又、カデンツァ(オーケストラが止まって、独奏楽器だけで演奏される部分)は図形楽譜で書かれているという。つまり、独奏者の裁量は非常に大きい。横山+鶴田錦史(琵琶)による演奏は、作曲者自身の立ち会いでリハーサルされ、初演されたから、楽譜に表しきれない作曲者の意図を最大限表現できているだろう。そして、その後、この曲が高い評価を受け、世界中のオーケストラ・指揮者によって演奏されるようになっても、独奏者だけは常にこの二人だったというから恐るべし。今後、この曲を演奏する人は、作曲者の意図に忠実ということを考えるなら、楽譜よりもCDに基づいて練習するしかない。こうなると、「ノヴェンバー・ステップス」は武満のアイデアによるものではあるにせよ、横山や鶴田も、演奏者というよりは共同作曲者と言うに近い。

 ヨアヒムがいてこそのブラームスのバイオリン協奏曲とか、岩城宏之と彼が初演した多くの現代音楽作品とか、作曲者と演奏家の深い関係を物語る話は沢山あるが、「ノヴェンバー・ステップス」ほど極端な例はそうそうあるまい。これほどの話になると、尺八演奏家としての他の活動に目が向けられなくても、それが不幸とはあながち言えないかも知れない。我が家にあった小澤征爾トロント交響楽団+横山・鶴田のCDを聴きながら、そんなことに思いを巡らせた週末であった。