失うものの方が大きい・・・明石事件の強制起訴


 先週の火曜日、兵庫県明石市の歩道橋で2001年7月に起きた死亡事故について、当時の明石警察署副署長が、市民からなる検察審査会の決議に基づき強制起訴されたというニュースが流れた。もともと神戸地方検察庁が不起訴処分にしたものを、遺族からの申し立てによって、審査会が審査の結果、起訴すべきとの議決をしたという。

 この事件は、花火大会の見物に訪れた大量の観客が、歩道橋に殺到して倒れ、下敷きになった11人が死亡した、というものである。

 「被害者」には申し訳ないが、私は、最近、何か事故が起こった時、誰かに責任を求め、そこに怒りをぶつけないと気が済まない、という風潮がどんどん強まっている(マスメディアの発達と関係するだろう)ような気がして、それを非常に危惧している。その気持ちは分からなくもない。しかし、「被害者」の感情に従うことは正義とは関係がない。むしろ、その弊害は深刻だと思う。

 歩道橋が混雑して危ないと思えば、近づかずに、少し待っていればよいのだ。あまり人を押せば、危険な状況を生み、誰かが痛い目に遭うという思い遣りを持てばよいのだ。人間には、本来そのようなことを考え、判断する能力が備わっていると思う。「安全」を警察任せにすることは、そのような人間の本来持つ能力を自ら退化させることになる。警察が何も言わないからこの場は安全だ、などというのは倒錯である。

  そのような人間の危機管理能力を健全に維持するためには、それなりの緊張感が必要であり、そのためには時々事故が起こっても仕方がない。その事故で失うものよりも、得られるものの方が社会全体として考えた時は大きい。今回の事故の責任者はその場にいた人々全てである。「被害者」だって、たまたま「被害者」になっただけであって、その差は紙一重。他の人を押しつぶしていた可能性だって十分にあると思う。

 警察は因果と対象のはっきりしている事件にだけ関わっていれば十分だ。警察が公衆の行為に責任を持つことを求めることは、警察が公衆の行為に介入することを許す、いや、積極的に求めることである。警察の責任追及をすることで、警察が際限なく(予防的措置というのは際限なく過剰になるという性質を持つ)私達の日常生活に介入してくるのことになるのは、私は嫌だ。今回の強制起訴が「市民の良識の勝利だ」などとした某弁護士のコメントは、悪者が見つかればそれで安心するという今の風潮を象徴しているだけで、「良識」であるはずがない。市民にそれほど立派な「良識」があるなら、歩道橋に、死者が出るほど我先に押し寄せたりしないはずなのである。

 このよう不特定多数による事件については、警察の責任を追及するのではなく、その場にいて無事だった人々が自らの責任に頭を垂れ、世の中の人々全てが「みんなで気をつけよう」と呼びかけあうのが正しいやり方だろう。