ハロウィーンの事故

 韓国の李泰院(イデウォン)で、あまりにも密になりすぎたために、150人を超える人々が死んでから、早くも1週間が経過した。18㎡(3.2m×5.7mの路地)に300人が積み重なるように倒れていたという。特別広いわけでもない我が家に、2500人ほどの人を詰め込んだというのと同じだ。正に想像を絶する。
 若者が多かったこともあって、気の毒だとも痛ましいとも思うが、韓国政府や警察がぺこぺこ頭を下げているのを見ると、それはちがうだろう、という違和感が強くわき起こってくる。
 今回の事故に関連して、明石(あかし)で21年前に起きた歩道橋圧死事故がよく引き合いに出される。私はその事故について、9年後に強制起訴だという話になった時、一文を書いた。今読み直してみても、思いは変わっていないし、今回の韓国の事故についてもまったく同様のことを思う。よかったら、その記事(→こちら)を読んでみて欲しい。
 今回にしても、事故が起きる前に警察が介入すれば、「不粋だ」「余計なお世話だ」となるだろうし、いよいよ危ないとなった時には、警察の力をもってしてもどうにもならない状態だっただろう。予防は必ず過剰になる。私は、事故のリスクがあったとしても、警察に規制されるよりは自由であった方がいい。危険かどうかは自分で判断する。その判断に誤りがあって、死んだりけがをしたりしても、それは自分のミスとして引き受ける。
 韓国で大事故が起こったにもかかわらず、日本では渋谷に多くの人が繰り出していたようだ。「警察が厳戒態勢を取っている」というコメントとともに、テレビで何度も中継されていた。
 私の隣でそれを見ていた娘が、「みんな暇なんだねぇ」とつぶやいた。本当にその通りだなぁ、と思う。暇で、しかも暇をつぶす主体的な方法を見付けられないから、煽られて「ハロウィーンだ!!」と、主に100均で買った変装用具を身に付けて、わざわざ人の多い場所に集まる、ということなのだろう。
 ハロウィーンという風習(?)が、日本でも一般的になったのはいつからだろう?Wikipediaによれば、それは1980年代以降とのことだが、私の実感としてはせいぜい今世紀に入ってからである。単に商業主義によって作り出された風習であって、いい(微笑ましい)ものだとは思わない。「また平居の天の邪鬼か」と顔をしかめる人もいるかも知れないが、理由は次の二つである。
 一つは、やたらとゴミが出るということ。変装している人達が身に付けているもののほとんどは使い捨てだ。もう一つは、子どもたちが口にする「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」に、何とも卑しいものを感じるからだ。子どもたちは何も考えずに、そう言うものなんだよ、と教えられて口にしているだけだろう。さすがに、見ず知らずの子供からそんなことを言われたことはないが、言われたら、「私が君にお菓子をあげる義務などないと思うが、あげなかった時に、なぜいたずらをされなければならないのだ?」と反撃したくなる。大人げがない、などと文句を言わないで欲しい。いくらお遊びとは言え、子供にそんな「脅迫の原形」とも言うべき言葉を教えてはいけないのだ。
 とにかく、人々は暇だと消費する。あげく群れて事故を起こす。同情くらいはしてもいいが、公的な対策など取る必要はなく、まして、政府や警察が責任を認めて頭を下げる必要なんかない。いくら家族や友人が死んで悔しくても、結果から逆算してものを考え、失敗の責任を、何でもかんでも自分の外に求めてはいけないのだ。