修理されなかった歩道、または「歩道橋」



 先週まで、北上川の河口にかかる日和大橋で、夜間だけ道路工事をしていた。我が家からは、そのための照明がよく見えいてた。

 全長1200メートル、空中部分700メートルのこの橋は、東日本大震災の時、西側の付け根の部分が陥没し、不通となった。ところが、それがわずか10日あまりで復旧したことは、あまりに驚いたので書いたことがある(2011年3月24日)。開通はしたものの、応急的な工事だったため、決して元の状態になったというわけではなく、それから2年が経って、ずいぶんへこんできたな、と思っていた所であった。

 毎日通る橋なので、路面状態がよくなることは大歓迎だが、工事が終わったところでまじまじと見てみて、ははぁ、やっぱり日本だな、と少し寂しい気持ちになった。それは、修理されたのが車道だけで、歩道は手つかずだったからである。車道は、修理前でもかろうじて舗装されていたが、歩道は砂と砂利が入れられただけで、自転車で通ろうとすると、タイヤがめり込んで走れない状態であった。それは放置されたわけだ。

 唐突な話に聞こえるかも知れないが、日本には「歩道橋(正式には横断歩道橋)」というものがたくさんある(最近、少し減りつつあるようにも思うが・・・)。これまた、日本だなぁ、と思う。私はこれが、人間よりも車を大事にする、言い換えれば、人間を大事にしない日本社会の象徴のように思える。都市の美観というものをどう考えるかという点でも、歩道橋はあってはならないものだ。韓国、中国、タイといったアジアの都市にも見られるが、それらの国で歩道橋が見られるようになった時期から考えて、どうも日本から発想が輸出されたもののような気がする。中国や韓国には、どちらかというと空中よりも地下歩道橋の方が多い。人間より車が優先するという点では同じだが、美観の点では多少許されるかも知れない。

 賢明なるヨーロッパ人は、こんな馬鹿げたものは絶対に作らないだろう。少なくとも、私は見たことがない。大切にされるべきは、車より人間であり、効率よりも美観なのである。

 修理されなかった日和大橋と、日本名物「歩道橋」は、共に間違いなく貧しい日本の社会(国民の価値観)を反映している。日本はまだまだ、ヨーロッパには追いつけない。