欠席連絡のあり方

 先週の土曜日、大阪で、親が子供を車に乗せたまま保育所に預けるのを忘れ、車内に放置された子供が熱中症で死ぬという事故が起こった。車はワゴン車らしい。いくら大きい車とは言っても、しょせん4畳半一間にもならない狭いスペースである。子供を下ろしていないことに気付かず、そのままドアをロックして、夕方まで気が付かないというのはまったく信じがたい。
 さて、私が更に信じがたいのは、保育所がその子の欠席について親に連絡を取らなかったこと、ではなくて、連絡を取らなかったことに対して強い批判の声が起こっているらしいことだ。もっとも、その市立保育所では、保護者からの連絡なく子供が来ない場合、必ず保護者に連絡を取るという規則があるらしいから、その点では確かに落ち度があった。しかし、私は保育所が責任など感じる必要はないと思う。
 小学生以上なら、家を出てから学校までの間で、子供が事故に遭うとか、勝手に遊びに行ってしまうとかいうことが起こり得る。この場合、親は子供が学校に行ったと思っているわけだから、学校が保護者に問い合わせなければ、子供の事故にも失踪にも気が付けない。学校からの連絡は必要かも知れない。
 だが、保育所に子供を自分で歩いて行かせる親はいないだろうから、子供が保育所に行くかどうかは完全に親の責任である。依頼して子供を預けている責任上、欠席の時には親が連絡を入れるのが当然だ。連絡が来なければ、保育所は親に問い合わせる必要などなく、翌日来た時に「休む時は連絡しなさいよ」と怒ればいいのだ。保育所はとても忙しい場所である。
 どうも私は、みんなで遊びに行っていて、ひとたび事故が起これば警察の責任を追及する先日の韓国の事故(→参考記事)や、20年ほど前の明石の歩道橋の事故と同じようなものを感じる。叩きやすいからといって、安易に「公」の責任にすることは、「私」に際限なく自覚と責任と緊張とを失わせることになってしまう。そうして「公」が肥大し、「私」が衰退していくことは非常に危険だ。
 そもそも、「無断欠席の時に保護者に連絡を取る」などという規則も余計なのだ。そんな規則を作るから責任が発生する。これはこれで、善人ぶって、何でもかんでも引き受けようとする最近の「公」の性質をよく表している。
 私は、15年ほど前に、仙台第一高校という学校に勤務していたことがある。宮城県を代表する伝統校、進学校であり、校風は極めて自由、否、いい加減であった。自分の都合で学校を休む生徒がわんさかいる(今の一高はどうか知らない)。「○○もう4日も休んでいるけど何やってるか分かるか?」と同級生に尋ねると、「たぶん○○塾の自習室にいますよ」などという答えが返ってきたりした。
 ある生徒が、無断で2週間近く休んだ。もちろん、その間、欠席連絡もなければ、こちらから電話するということもなかったのだが(←当時でも少し珍しいかも)、これで進級問題になった時には、担任として面倒なので、様子くらい聞いておくか・・・と、仕方なく電話をした。すると、母親が「一高の先生が、子供が休んでいるくらいで電話下さるんですか?」と驚いたように言った。私は続けて、「で、○○君はどうしてるんですか?」と尋ねた。すると母親は、「知りません。どこかにいます。夜には帰って来ています」と答えた。驚き呆れることを通り越して、その腹の据わり方に、私は半ば敬服した。
 これが本来あるべき姿、などと言う気は毛頭ないが、最近の学校の、朝いなければすぐ連絡、そうしなければ「公」として怠慢、みたいな様子を見ていると、妙に懐かしく思い出されてくる。わずか15年前ながら、古き良き時代の一コマ。