金のかからない改革はたくさんある



 一昨日の新聞に、北海道の教育長が、君が代で起立しない教員のいる学校名を公表する旨語ったという記事があった。戦後の教育問題で、これほどたちの悪いものはない。「たかが旗一枚、歌一曲」、あるいは「私は日の丸・君が代が日本の国旗国歌としてふさわしいと思う」などという問題ではない(そう考える人が多いから好都合なのだろう)。お上の言うことについて、現場の教員が是非を論じる、まして反対するなどということは絶対に認めない、という上意下達姿勢の強硬なアピール以外の何ものでもないのである。政治権力というものが力ずくで入学式・卒業式に日の丸・君が代を持ち込むことに成功してから、あっという間に、教員の中では教育のあり方に関する熱い議論が行われなくなり、管理職にお伺いを立てることが増え、独裁者として君臨する横暴な校長が増えた。まあ、権力者の思惑通りに事は進んだのである。

 まあ、民主党の方々も、10年あまり前からいる方の大半は、教育現場での日の丸・君が代強制を根拠付け、反対を封じるための「国旗国歌法」に賛成したわけだから、政権が変わったからといってこのような教育現場を取り巻く状況に変化を期待する方が間違っているのは分かっているつもりだが、それでも、そんな記事を目にすると気分は暗い(今回は一地方の問題だが、これはもともと国の姿勢である)。

 昨秋の政権交代以来、高速道路の無料化とか、子供手当をどうするかとか、マニフェストの実行を目指しては、資金の壁にぶつかって混乱する、ということが繰り返されている。それらは確かに、金銭的に実現が難しそうだが、単に(?)世の中を良くしようと言うのなら、お金のかからない改革たくさんあるのに、と私なんかは思う。

 特に教育現場なんて、むしろ金がかからないようにすればするほど良くなるのではないか(金のかからない勉強法ほど正しい勉強法、という私の持論と同じ)。お金のかからない改革とは、現場教職員の判断を尊重してあまり学校に管理の手を伸ばさず(日の丸・君が代の強制をやめることはその象徴)、いつの間にかずいぶん増えた強制研修をやめ(もしくは大きく減らし)、教員免許の更新制をやめ、教員評価制度をやめ、大学合格率や就職決定率で競わせたり、そのための補助事業の類をやめ、「魅力ある学校作り」というパフォーマンス合戦の強制をやめ、主幹教諭のような新しい中間管理職を作らない・・・といった具合だ。お金のかかる教育改革で私が必要だと思うのは、少人数学級(または教員定数増)の実現と、高校・大学の授業料負担を下げることくらいだ(この点で、高校の授業料不徴収が決まったのは結構である。ただし、いつまで続くのか・・・)。ただでさえも学力や教員の質の低下が心配される昨今、平居はそれを無視して、自分が楽することばかり考えているのだろう、という文句もありそうだが、果たしてそうなのかどうか・・・?

 私は、40人学級のまま、現在のように、受験や就職ばかりをモチベーションにしながら、知識注入型の授業をひたすら続けても、そこで得られる「学力」なんてたかが知れていると思うし、教員の実力なんて人格なのだから、強いられた研修や年に2回の校長面接で育つなんて夢にも思わない。上の人の意向を伺ってばかりいるような人に主体的な人などおらず、主体的でない人に主体を育てる教育は出来ないとなれば、いくら問題があったとしても、各自の内発的な力に期待するしかない、と思うのである。それを期待してよい程度に、教員の大半は真面目である。そんな曖昧なことでは世間の納得が得られない、と言って策を弄すれば、得られるのは対策を立てて頑張っているという「言い訳」と「安心」だけである。それにしては失うもの(主に、労力と哲学的な思考力・判断力)があまりにも大きい。

 聞く所によれば、官庁において(会社もかも知れない)、有能な役人とは予算を多く取って来られる人だという。だとすれば、予算が付くということは何かをするということであってプラスであり、予算が付かないということは何もしないということであってマイナスだということになる。私は、そこから一歩抜け出て欲しいと思う。何かをすることでマイナスが生じ、何もしないことでプラスが生まれるなどということは、今の教育行政には山のようにあるのである。