「結果オーライ」は危ない



 ワールドカップの日本代表が帰国した。英雄扱いであって、彼らの行く先々では大変な盛り上がりだというニュースが飛び交う。私も今回の日本代表の試合には大いに楽しませてもらったし、十人並みに感動すらしたのであるが、これらの報道を少し冷めた目で見ている自分がいることにも気付く。

 勝負の世界は結果論だとつくづく思う。開会前に、私も含めたどれほど多くの人々が、練習試合におけるその戦いぶりを批判し、先を悲観したことか。それは、監督の解任論議にまで及んだ。

 そのような手厳しい批判があったからこそ、日本代表のあの活躍があったのであろうか?私はそうは思わない。今回のワールドカップの善戦は、人々の批判とは必ずしも関係しない選手達自身の向上心、勝利へ向けての執念(本能的なものだけではなく、ワールドカップという檜舞台で活躍すれば、自分が高く売れるというプロとしての意識も当然あっただろう・・・)、監督の周囲に振り回されない独立性、そして「運」の結果だと思う。

 帰国した選手が一様に口にするのは、今回のチームの結束の固さであり、サポーターに対する感謝であったが、厳しく批判していた人々が、善戦の後に選手達を称賛するのと同様、開会前にサポーターの批判に相当苦しい思いをしたであろう選手達が、今、そのことは忘れて、本心から感謝を述べているのだろうか、ということが気になった。勝手な連中だ、と内心思ってはいないのだろうか?結果オーライということについて、サポーターも選手も同じなのだろうか?

 かつて、野球の王貞治氏が、ファンというものは残酷だ、と述べているのを聞いたことがある。スポーツの世界だけではない、学校だって同じである。結果が出ていれば全てはよく、出ていなければ全ては悪い。人がそのような心性を持っているからこそ、結果に執着して自分を伸ばすことが出来る、というのも本当だが、結果が見えにくいものについてはその価値が認められない、ということも起こってくる。私は、哲学の議論に代表されるように、世の中の価値あるものというのは往々にして答えがない、もしくは目に見えないと思っているので、そのような心性は非常に軽薄で危ういものに見える。