リヒャルト・ワーグナーの交響曲



 4月から、16年ぶりで自家用車通勤を始めた。勤務先の水産高校までは7kmあまりなので、体力の維持増進のためにも、エコ生活のためにも本当は自転車で通いたいところなのだが、子供を保育園に送り迎えする必要からそうもいかない。

 1日に40分ほど車に乗るのだし、電車と違って本は読めないのだから、ここはCDを使って、英語か中国語のヒアリング能力を高めてやろう、と思っていたのだが、いざ始めてみると、そんな頭の使い方をする気には全然ならない。疲れるのである。いきおい「音楽」ということになってしまった。私が聴くのはクラッシックが9割、その他1割である。せっかくだから今まで聴いたことのない曲を聴くなり、音楽史をたどるなりの系統的な聴き方をするなりしようと思いつつ、1回15〜20分の細切れで、曲に対する冒涜とも言える聴き方を続けている。

 今年、そうして聴いた、自分にとって耳新しく、非常に面白いと感心した曲の中に、リヒャルト・ワーグナーハ長調交響曲というのがある。ワーグナーとは、『リング』で有名な、あのワーグナーである。1832年作ながら35分あまりかかる、当時としてはなかなかの大曲で、なんと19歳の時の作品。

 ワーグナーがベートーベンの崇拝者であったことは有名である。この曲は、当然、彼のベートーベン研究の成果であり、大きな影響を受けて作られた作品である。そのことは、車の中で「ながら聴き」をしていてもよく分かる。そして、私が面白いと思うのは、ベートーベンが死んで5年後、ベートーベンの最後の作品までを研究した成果であるはずのこの作品が、編成が大きいゆえの響きの違いはあるものの、イメージとしては、どうしてもベートーベンの第1番から、せいぜい第4番くらいまでの、つまりは若い時期の交響曲の延長線上に聞こえるということである。つまり、若い人間のすることはやはり若いのであって、ベートーベンを研究しても、ある意味で、ベートーベンの人生の延長線上に仕事を続けることは出来ないのである。

人間が「進歩」したのは学術(特に科学)についてであって、若者は若者なりの、老人は老人なりの思いや考えがある。200年前の人間も、現在の人間も、最大の関心事は恋であり、権力である(←私が、という意味ではない。一般論)。文学や芸術が普遍的であるのは、そのような人間の不変性があればこそであり、そんなことはここに勿体ぶって書くほどでもない「常識」に属する。しかし、ワーグナー交響曲を繰り返し聴きながら、彼のベートーベン研究が立派であるだけに、それでも託された精神はベートーベンの若い頃に近いということ、そこに表れた「人間は不変なのだ」という真実に、私は深い感慨を抱いていた。