戦争の教訓は開戦の教訓だ



 月曜日から、既に新学期が始まっている。そういえば本物の「月曜プリント」では、必ず夏休み明けに終戦の日特集みたいな記事を書いていたなぁ、と思い出す。ちょっと急ぎの個人的な仕事を抱え込んでいて、しばらく何も書けなかったが、今更ながら新学期の恒例をということである。


 私が老域に達したつもりではないのだが、夏休み、とある所で目の前にあった『いきいき』という老人向け雑誌をパラパラめくっていたら、半藤一利のインタビュー記事が載っていた。そこに、「歴史から学ぶことができるただ一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」という言葉が引用されていて、ふと目が止まったのである。ヘーゲルの言葉、とある。

 もうずいぶん昔の話、アインシュタインの一生を描いた映画を見たことがある。その最後の場面で出て来たのがこの言葉で、私は強烈な印象を受けた。アインシュタインや映画原作者の言葉ではないようだが、一体だれの言葉なのだろう、と思いつつ、おそらくは20年以上の月日が過ぎて、今、ヘーゲルの言葉だと分かったことが嬉しかった。

 ところで、この記事は半藤氏の『日本で一番長い夏』という著書に関する、もしくは、その本で取り上げられている「戦争反省会」に関するもので、最後に半藤氏は、「集団催眠にかかることなかれ」を教訓(警句)として述べている。

 終戦の日、首相の言葉で、「戦争の悲惨さを後世に伝える」ことの重要さが強調されていた。毎年、8月には各所で繰り返される言葉だ。

 「集団催眠にかかるな」と言うだけでかからないくらいなら、何も面倒はない。問題は、なぜ人は集団催眠にかかるかであり、それを脱するための具体的方法である。また、私は、戦争の悲惨さなんて説いたって、絶対に戦争は阻止できないと思っている。現に、戦争の悲惨さを知りすぎるほど知っている、現在戦争中の国々が戦争を止めたいと願いながら、止められずにいる。なぜ、戦争の悲惨さが抑止力にならないかというと、それは戦争をした帰結であって、開戦時には想定されていないことだからである。

 例えば太平洋戦争を考えてみよう。人々は「王道楽土」の満州やアジアの石油王国インドネシアから大量の天然資源を手に入れ、豊かな日本を築き上げようとし、それを邪魔する憎きアメリカは必ず打ち倒せるという、今から見れば、誠におめでたいことばかりを考えていた。その結果が、見境のない日米開戦であった。つまり、戦争が始まる時には、強烈な利害が問題になっていて、それに目がくらめば、他は見えないのであり、勝つことを想定していない戦争などあり得ない。第一次世界大戦のイギリスだって、ベトナム戦争アメリカだって、極めて楽観的な予測のもとに戦争を始めている。そして、ある程度以上のエネルギーを費やしてしまうと、戦況が悪くなってきても、今度は既に費やしたエネルギーが無駄に終わることを恐れて、人は戦争をやめられない。その結果が、「戦争の悲惨さ」というものだ。

 「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」これは、塩野七生が、大著『ローマ人の物語』の中で繰り返し引用するカエサルの言葉である。現実があって未来がある。よって、人間が自分に都合のよい現実しか見ないとすれば、それは、自分にとって都合のよい未来しか想像できない、ということでもある。太平洋戦争当時の日本人も、この言葉の真実を裏切ることが出来ない。なんと深い言葉だろうか。

 戦争を起こさないようにするには、結果の部分で教訓を作っても仕方がない。始まりの部分でなければならない。自分たちが「見たいと欲する現実しか見ない」愚かな性質を持つこと、人間の歴史は、人間が歴史から学ばないということだけを教えてくれているということ、これらの耳の痛い教訓を甘んじて受け入れ、その苦さを噛みしめ、「己自身を知る」ことこそが、あの極限の悲惨に陥らないための方法であるに違いない。悲劇は今、自分自身の内側にあるのである。どうすれば「集団催眠」にかからずに済むかということも、結局、このことの自覚を抜きにしてはあり得ない。