育児放棄に思う



 大阪で、母親が育児放棄をした結果、幼い二人の子どもが死んだという事件については、今でもしばしばマスコミに取り上げられているが、これは似たような年齢の子供を持つ私にとって、非常に衝撃的な事件だった。まずは、死んだ二人の子どもに対する「可哀想だ」という人並みの感情が強い。あまりにも悲惨な出来事でありすぎて、報道に接するのもつらいほどだ。私の母親なぞは、聞いていられないと言って、新聞を読まないはもとより、この事件に関するニュースになるとテレビも消してしまう。

 「可哀想だ」という以外に、私が気になったことがある。それは、育児放棄をしたS女の生育環境だ。父親は高校教諭、ラグビー部の監督で、毎日深夜に帰宅し、土日もない。離婚して、子どもを自分が引き取っていた。もちろん、面倒など見れるはずもないので、結局は東京の知人に預けっぱなしにしてしまっていた、という。つまり、育児放棄をされた子どもが、自分の受けた扱いを増幅させた形で育児放棄をした格好だ。S女ばかりを責められない。

父親がどのような理由で離婚したかは知らない。ラグビー部の監督を自分の生きがいとしてやっていたのか、何かの事情で辞めることが出来なかったのかも分からない。ただ、私も一人の高校教師として、野球とかサッカーとかラグビーとか、いわゆる「花形種目」に関わる人ほど、信じられないような過酷な生活をしていることは、容易に想像できる。私は高校野球の監督インタビューなどを見ながらも、甲子園という華やかな舞台でマイクを向けられている監督の背後に、どれほど無理な私生活があるかということをよく想像しては、暗い気持ちになってしまうことが多い。自分には出来ないことであっても、あまり感心や畏敬は沸き起こってこない。

 仕事をすることは美徳だという考えは、日本人には根強い。それ自体は決して悪いことではない。しかし、仕事は常に家庭に優先する、仕事があるなら家族も我慢するのが当然だ、となるといかがなものか?学校でも、特に男は、家庭を理由にそそくさと帰るのは気まずいような雰囲気がある。もちろん、勤務時間外の話だ。職種によっても抱える事情は様々だが、ほどほどにしなければ、と思う。

 子どもをきちんと育てることは、非常に大きな社会的責任だと思う。そこに責任を持つ覚悟がなければ、子供は持ってはいけないと思う。

 豊かな日本が、豊かさの背後で、大切なものを多く失ってしまった、とはよく言われることだ。これはいろいろな場面で言える。本当に大切なものは何なのか、求められているのはそのような哲学なのである。