元一高教師の一高祭



 先週末は、結局、家庭の事情で東京にビルマ映画を見に行くことは出来ず、逆に妻が不在で、子守に専念しなければならない二日間になってしまった。

 どうやって時間をつぶそうかなぁ、と思案の結果、日曜日は一高祭に足を運ぶことにした。折よく、山岳部の生徒も、「お待ちしてます」みたいなメールをくれた。

 会場に着くと、相変わらず信じがたいほどの人出であった。担当学年の関係で、知っている生徒がそれほどいるわけでもなく、昨年までとうって変わって、いかにも部外者的な感じだ。甚だ居心地が悪い。

 女の子達がチラシ配りや呼び込みをやっていた。「二女高生」のエキストラに見えて仕方がない。時折、ハッと彼女たちも一高生なんだ、と思い、ちょっと目眩を感じた。頭で分かっても、心がそのようには受け入れない。

 3時間ほどしかいなかったこともあってか、実行委員の問題点、運営上の不手際が、ほどほどに見え、ほどほどに見えなくてよかった。アラがあまり見えないと、このような自由なフィールドを与えられ、しかも大勢のお客さんに来てもらって、自分たちのやりたいように行事作りを出来る彼らが、本当に恵まれた、羨ましい存在に見えてくる。

 子どもが怖がるので、あまりあちこち見たわけではないのだが、やっぱり水泳部のシンクロは見応えがあった。私は私で、彼らのはじけるような若さにどうしようもない美しさを感じ、子どもたちは子どもたちで自在な水泳の妙と、大きな動きと水しぶきに楽しさを感じ、それぞれに満足したようである。娘が、「オキちゃんみたいだったね」(「オキちゃん」とは、今夏、沖縄の「美ら海水族館」で見たイルカの名前)と言っていたのは、最高のほめ言葉だろう。最後のタワーの際、本来以心伝心、若しくは視線で確かめ合うことを、言葉として表に出していたことだけがいささか興醒めだった。

 今日、たまたま、水産高校の文化祭担当の先生から、一高の文化祭について質問を受けた。答えながら、そのあまりに突出した特殊さに、答えることへの違和感ばかりがつのった。自分が意味不明の、異次元世界の言語を操っているみたいな気分にさえ陥った。そう、あれは何かの間違い。「一高の常識は、世間の非常識」である。