命が惜しければ、全財産を出せ!



 日曜日と月曜日は、石巻地区の高校総体で、昨日は代休であった。

 私は運動部を持っていないので、書道愛好会の生徒と共に応援係である。日曜日は、妻が運動部を持っている都合で、子どもを連れ、ラグビーの会場に行った。終わるのが11時半と分かっていたので、子どもに「お外ご飯をするぞ!」と宣言し、山道具から取り出した鍋釜の類いを持って行った。

 宮水が石巻高校に勝つのを見た後、気分よくトヤケ森山に登る。樹木の生えていない、ほとんど芝生状態の頂上から見える景色は、本当に絶景だ。真っ青な太平洋、大きく蛇行しながら滔々と流れる北上川とその河口、日和山、市街地、大型商業施設が建ち並ぶとともに、災害住宅用の大規模な造成工事をしている蛇田地区、そして河南町の田園地帯。特に田んぼは、連休くらいから田植えが始まったとあって、水が張られ、正にみずみずしい春の田園風景を作り出している。天気もよく、遠くには雪をかぶった栗駒山蔵王連峰までよく見えた。準備の時間も無いので、たいしたものを作るわけではない。それでも、子どもは大喜びである。盛んに飛んでいるアゲハチョウを追いかけたり、マットの上でゴロゴロじゃれ合ったりしながら、あっという間に3時間が経っていた。

 昨日は、本当の「休み」だった。昼下がり、少し散歩に出掛けた。

 ここで、今更ながらにふと気になったことがある。震災後、地盤強固な高台である日和山に新しい宅地を求める人が多く、土地の値段も久しぶりで上がったと聞いていた。ところが、人が住んでいないと思しき家、空き地、といったものがたくさん目に付くのである。

 それらを見ながら、更に思い出したことがある。それは、前任校の某先生が、仙台の都心からせいぜい20分くらいといういい場所に、とある事情で、自宅とは別に家を持っていた。某先生は、それを手放したいと思っていたのだが、売りに出してから10年経っても買い手が付かないことを嘆いていた。更地にすれば売れるらしいが、まだ住める家を取り壊してしまう気にならない、と言う。確かに、その通りだ。

 最近、世の中を見ていて思うのは、「中古」は嫌だ、という意識の強さである。特に、家に関しては、「中古」が嫌だという意識と、家を建ててみたい、という意識の相乗効果によって、空き家はたくさんあっても買い手が付かないらしい。だから、わざわざ郊外に造成地を作ることになる。確かに、新しい技術の開発はすさまじいペースで、一度新しい物の良さを知ってしまうと、旧式のものは嫌だ、という気持ちも分からなくはない。だが、被災して家を求めるという切羽詰まった時に、或いは、石油資源を持たない、食糧自給率40%未満の国で、「中古」は嫌だから新築できる更地を作ろうと、農耕地を埋め立てたり、山を崩したりすることが許されると考えるのはおかしい。私が日頃からよく今の社会について「無駄に豊かだ」というのは、正にこういうことだ。

 今日の新聞に、南極の氷の融解が止まらないため、IPCCの海面上昇予測を上方修正しなければならないというNASAの発表が載っていた。人類は今、強盗にピストルを突き付けられた状態にある。「命が惜しければ、全財産を出せ!」犯人がこう言ったとしたら、全財産を差し出さない人がいるだろうか?「いない」、というのは客観的な正解だ。なぜなら、死んでしまったら、財産なんか持っていても意味がないし、「嫌だ」と言えば、犯人は殺して全財産を奪うだけだからだ。こんなことは自明だ。だが、人類にとっては自明でないらしい。これだけ、いろいろな指摘が為されていながら、まだ「景気」だとか「豊かさ(=便利さ、快適さ)」だとか言っていられるおめでたい感覚が、私にはよく分からない。

 本当に人々が環境の危機的状況にそれほど無頓着なのか?仕事を辞めなくてもいいものなら、一度国政選挙に出てみてもいいのだけれど・・・。