「はやぶさ」は頑張らない



 けっこう有名な話だと思うが、私は「一流」のものが大好きで、特に科学技術とスポーツには目がない。科学技術の中で、特に面白いと思うのは、宇宙と医療だ。当然ながら、世間で大騒ぎになる前から「はやぶさ」には注目していて、非常に感心しながら見守っていた。

 ところで、世間の「はやぶさ」熱も一段落しつつあるこの2〜3日、学校の図書館で借りた『小惑星探査機はやぶさの大冒険』(山根一真著、マガジンハウス社)なる本を読んでいた。そして、以前からマスコミでの報道を見ながら感じ、今回、この本を読みながらも端々で感じた違和感がある。それは「がんばれはやぶさ」「何事にもあきらめないはやぶさに感動した」云々という扱いについてである。

 ひどく興醒めな言い方で申し訳ないのだが、「はやぶさ」は意思を持たない。「はやぶさ」は人間が与えたプログラムに基づいて飛び、トラブルを起こした後も、地上から送られた新たなプログラムによって対処し、帰還を果たしたのである。つまり、あきらめずに頑張ったのも、その結果偉大な成果を生んだのも、すべてJAXAのプロジェクトチームの人々であって、「はやぶさ」ではない。

 「はやぶさ」には人々の膨大なエネルギーが注ぎ込まれた。ここで思うに、人々の「はやぶさ」に対する感動とは、単に対象を間違えて感情移入しているという錯覚だけではなく、注ぎ込まれたエネルギーに対する感動ではないだろうか?

 私は現在、子育て真っ最中の身の上である。自分の子どもというのは本当に可愛いものである。しかし、時々ふと思うのは、自分が我が子に対して抱く愛情というのは、本当に純粋に子どもに対するものなのだろうか、ということだ。いささか物騒な仮定だが、仮に今、我が子が死んだとしたら、私は確かに激しく嘆き悲しむであろう。しかし、その悲しみの中には、今まで子どもに費やしてきた自分の膨大なエネルギー(時間)というものが失われてしまったという、一種の徒労感、虚脱感が、少なからず含まれるような気がしてならない。ということは、逆に、子どもをいとおしむ感情の中には、自分の過去のエネルギー(時間)に対する執着がたくさん含まれるということである(「手のかかる子ほど可愛い」などとよく言われるのはその証明になるかも知れない)。

 時間は不可逆なもので、だからこそ、人間のあらゆる感情は、時を費やしたことがプラスの結果を生んだかマイナスの結果を生んだかということによって生じてくる。「はやぶさ」に費やされた多くの人々の多くの濃密なる時間、それこそが「はやぶさ」にたいする愛着と感動の原点だ。「はやぶさ」という機械はそのシンボルでしかない。