人は誰のために学ぶべきか・・・司法修習生の手当問題



 今日の新聞に、司法修習生への手当の存続が決まった、という記事があった。私は本当によかった、と思う。この件に関しては、私は結構早い時期から関心があって、仙台市内での法科大学院生や弁護士によるデモ行進も知っていたし、何度かこのブログでも取り上げようと思っていたのである(いろいろな事情で、結局取り上げられなかったが・・・)。

 昨年の6月15日に、「なぜ大学はただでなければいけないか」と題して書いたことと共通する。司法修習生に手当てを支給せず、半年の間、貯蓄や貸与される奨学金でしのぐことを強いれば、その法律家は、決まった給与を受け取る裁判官や検事ならともかく、給与制ではない弁護士になった場合、元を取ろうとするに違いないし、そうすれば、弱者の救済という法律家の理念は怪しくなるのである。元々少ないらしい裁判官や検事希望者が、更に減る可能性もあるだろう。

 教育現場でも、よく「受益者負担」という言葉を耳にする。しかし、「受益者」とは誰だろうか?或いは、誰であるべきだろうか?それは、その弁護士自身よりも、むしろ、弁護士によって不利益を救済される人であろう。大学法学部の学生にも、法科大学院の学生にも、そして司法修習生にも、もっともっと投資をしてよい。ただし、彼らに、世の中の人々がお金を出し合って、あなた達の勉学を支援しているのだ、ということははっきりと意識させる必要がある。そして、彼らが法律家になった暁には、その恩を、社会正義の実現という形で返すように教え込むのである。これはある意味で利己的な人間の本性に逆らう、極めて難しいことではあるのだけれど、「だから、〜」と言ってしまえば、身も蓋もない。

 もちろん、このことは、大学の他の学部でも、高校でも、中学校でも、小学校でも、基本的には全く同じだ。私も一人の高校教師として、その必要性と難しさを常に意識している。