教員が学ぶということ



 昨日の夕刻、A先生の呼び掛けで、「有志勉強会」なるものが開かれた。昨年、県の「優秀教員」表彰を受けたM先生に、「ナマコの資源管理」についての話をしてもらうという。M先生とナマコの関係については、実習場で直接幼生や稚ナマコを見せていただいたことなどもあり、既におよそのことは知っているつもりだったが、その全貌をまとめて知ることが出来れば、また新たな発見もあろうかと思って出席した。

行けば、管理職を含めて30名ほどの先生が集まっている。写真も見ながらの明快なお話の後は、多くの質問も出て、なかなか活気のあるよい会になった。

 今日、呼び掛け人であったA先生とあれこれ話をした。そして、やはり研修会というのは、自発的で任意だからこそいいのだ、という話になった。今や、教員の世界には、国が定めたものと、県独自のもので、相当な数の研修会が実施されている。その中には、「悉皆」といって、一網打尽の強制研修が少なくない。大抵の教員は、バカバカしいなあ、と思いながら仕方なく行っているように思う。そこでは、「受けた」という事実、「報告」という形式が非常に重要である。いきおい、形だけは何とかしようということになる。何かを学びたいという、内側からわき出てくるエネルギーとは無縁の世界だ。人によっては、義務とはいえ、受ける以上は実のあるものにしようと考えることが出来るのであろうが、私などはそのようなお目出度い意識は持てない。疲労感と嫌気は増すばかりである。「労多くして実り少ない」とは、このような場面で使う言葉だ。

 時間も金も保証されていないけれど、学びたいという欲求、現状に対する問題意識があるから学ぶ、それが研修の原点だ。M先生を講師にしての有志勉強会は、そんなことを再認識させてくれた。

 せっかくの機会なので、もう一つ書いておこう。

 昨年の12月28日の午後であったか、職場の草食系男子教員(?)某先生が、御用納めだというのにPCに向ってせっせと仕事をしていた。とその時、すぐ近くに座っていたO先生が、「先生、いつまでもそんな仕事なんてしてないで、女の子とデートでもして来いよ!」と声を掛けた。私は、非常に優れたアドバイスであると、O先生をほめた。年末に最後までPCに向かいながら、新学期の指導案だか授業プリントだかを作っていた某先生は「立派」である。しかし、実は私も、この先生が教師として、若しくは人間としてより豊かで大きく成長するためには、いかにも勤勉に「仕事」をしているよりは、女の子と手をつないで街でも歩くことの方がはるかに重要だと感じていたのである。

 教師という仕事は恐ろしい。一体何が実力なのかてんで分からない。知識も豊かな人間性も必要だ。優れた指導のノウハウを知っていることは大切だが、それだけで日頃の問題が解決するというものでもない。教育とはおよそ関係の無いような、どんな知識や経験が生きてくるか見当もつかない。

 だからこそ、教師の研修を、いかにも直接授業やクラス経営に関係のある内容で埋め尽くすことは愚かしいのである。しかし最近、直接役に立つことだけを意味のあることと勘違いしている人が、教員内にも教育委員会の側にも多いように思う。ぴしっとスーツを着て、勤勉に「仕事」をし、書類作りは完璧、もちろん不祥事は起こさず、何をやってもソツがない、そんな役人的な教員は間違いなく増えている。反面、人間くさく、卒業してから何年も経ってから、ふと懐かしく思い出すといった「先生」は減っているだろう。私はそれを寂しいと思う。

 教員にとって、優れた教員になるために為すべきこととは一体何なのであろうか?立ち止まって考えてみると、それに答えることは途方もなく難しい。