謝罪する予備校・・・京都大学カンニング事件に寄せて



 京都大学カンニング事件について、思ったことを整理しておこうと思う。

 あの事件は、やり方が世間を驚かせたというだけで、冷静に考えてみると、まったくただのカンニングであって、これほどの大騒ぎには値しない出来事である。本人だって、どうせ実力では合格しないのだから、カンニングに挑戦し、成功して合格すればもうけもの、失敗しても実力通りの不合格扱いで終わり、失うものは何もない、と思っていたであろう。だから、これほど報道が過熱し、いかにも「大事件」になってしまったことに対し、ひどく狼狽しているのではあるまいか。

 私などは、試験会場であれだけのことが出来るという、その技術力への感心が先に立つが、携帯電話も含めて、人間が持ってしまった技術に、人間が振り回されているような事件に対する滑稽とも、恐ろしいとも思う気持ちも強い。しかも、この手の事件は、今回に限らず、最近非常に多い。

 私が今回、当の受験生以上に気になり、不満を感じたのは、予備校の担当者がマスコミのカメラの前で深々と頭を下げ、謝罪したことである。私には、彼らに責任があるとは到底思えない。しかし、謝罪をするということは責任を認めたということであり、責任を認めれば、今後へ向けて対策を取らざるを得ない。予防というのはこれで十分という保証がないために、必然的に過剰になる性質を持ち、それ故に、予備校の中は小うるさく窮屈になるに違いない。それによって得られるものより、学生と予備校の関係者がこぞってうんざりすることのマイナスの方が相当大きい、と私は思う。マスコミの増長を後押しする罪も大きい。

 何故彼らが謝罪したかと言えば、おそらくは、そうしなければマスコミの追求に対して収まりがつかないとか、彼ら自身が「自分たちに責任はない」ような態度を取ることによって、世の中に対してふてぶてしい印象を与え、経営上のダメージがあると判断したとか、そういうことではないかと思う。それが本当かウソかは知らないが、とりあえずその場を無難に収めるために、やたらペコペコ頭を下げるという風潮が、最近は強い。これは間違いなく、世の中を窮屈にするし、人間を理念や哲学(真実)から遠ざける。

 人の噂も七十五日。今回のカンニングのことなどは、早くほとぼりが冷めればよい。一方、人間は自分たちの開発した技術に、あらゆる場面で今後も翻弄され続けるだろうから、そのことに対する反省は人間全体で(←ここが大切)共有し続け、人間が技術に使われるのではなく、人間が技術を使うのだ、という意識と行動とを確立させようと努力することは必要である。