後は立派なバカとなれ!・・・体育祭・錨章祭に向けて



(10月5日付第2次月曜プリントより、加筆転載)

 9月下旬に数回開かれたシナリオ委員会は、毎回なかなかの盛り上がりを見せた。あの雰囲気がクラス全体のものになると最強なのだが、残念ながら、2回のシナリオ検討HRは、なかなかそうはいかなかった。しかし、勝負はこれからである。

 せっかくのクラス企画だし、宮水でクラス演劇に挑戦するというのは非常に珍しいらしいし、私が命じたわけでもないので、出来るだけ多くの諸君が関わり、楽しみ、充実感を手に入れて欲しいとは思う。

 かといって、このことについて、私は諸君に何かを強制したり、真面目に取り組まないと言って怒ったりは決してしない(怒るのは、人の足を引っ張ろうとする時だけ)。なんだか楽しそうだから、自分もぜひ一緒にやりたい、とクラス全体の動きになるのが理想。斜に構えて参加しない人が居ても、それはこのイベントを通して人と喜びを共有することも成長することも出来ない気の毒な人、損をするのは本人、というのが私の考えである。私は、ファシズムも上意下達も大嫌いだ。

 脚本は一応の決定を見たけれども、それに縛られる必要はない。練習しながら、臨機応変、柔軟にいじっていけばよい。最終的に、自分たちの思いが出来るだけよく表現できるものになればよいのだ。

 ところで、体育祭(7日)にしても、錨章祭(22日)にしても、楽しみ、感動を味わうためには「バカになりきる」ことが大切である。これは、人生を生きていく上でも重要なことであり、更に、私が見たところ、人間の能力の高さを示すバロメーターであると言っても過言ではない。

 なぜ、能力の高い人はバカになりきれるのか?バカになることがなぜ大切なのか?

 思うに、これは「頭の切り替えの能力」と「自分に対する自信」の反映だからだ。常にバカでは困るので、バカになれる人は、バカになるべき時がよく分かっていて、その時だけバカになる。だから、頭の切り替えが出来ない人はバカになりにくく、バカになれる人は頭の切り替えがよくできるのだ。また、自分について自信のない人は、バカになれば、俺はやっぱりバカだとへこむだけなので、バカにはなれない。自分はバカではないという自信があるからこそ、バカになれるのである。と書けば、自分は自信がないから、やっぱりバカにはなれません、という人もいそうだが、そういう時は、無理矢理バカになることによって自信をつけるという逆説もあり、である。

 とにかく、何かに取り組む時というのは、余計なことを考えず本気でやらなければ、決して面白くはならないというのは確かである。こんなことはクダラナイと言う人は、案外、何に対してもそういう姿勢を取って、くだらなくないことなどない人だ。それは人生を貧しいものにする。健闘を祈る。