編年体の思想・・・開設2周年を記念して



 昨日は、このブログの2周年記念日であった。もともと、前任校の卒業生用だったが、「もともと」を知っている人、意識している人がいるかどうか分からないので、少し確認しておこう。

 これは、前任校の何名かの生徒の強い勧めに従い、「月曜プリント」とか「担任所感」とか、「平居プリント」と呼ばれていた私の学級通信、そして生徒会誌等の校内(←限定、ここ重要)冊子に寄せた文章から、多少なりとも一般的内容を持つと思われるものを選んで、公開するために作られたものである。2009年12月22日以前の記事は、すべて後からデジタル化したものである。自分が書いたものを後から見直すと、アラが非常によく見えるため、デジタル化の際、大幅に修正を加えることになってしまい、文章によっては、原形をまったく留めていないものもある。

 異動によって担任からはずれたり、生徒のタイプが極端なまでに変わったりという事情や、どうも最近は在校生でも卒業生でもない読者が一定数居るらしいということが分かってきて、このブログの目的は変化することになってしまった。学級通信から離れて、まったく独立した「表現活動」になってしまったのである。

 特に、昨年、そして今年と、書き込まれる文字の数は飛躍的に増えた。「粗製濫造」というやつである。その結果、後から訂正したいとか削除したいと思うことも増えることになった。

 訂正はともかく、削除は簡単である。しかし、ここで考える。

 かつての自分の文章が気に入らないのは、粗雑であるといった文の良し悪しもともかく、基本的には、当時の自分の考えが今の自分の考えと違うからである。しかし、そんなことを言っていたのでは、文章は書いた先から捨てなければならなくなる。では、捨てればいいのだが、人に読まれてしまえば、それをあらゆる意味で完全に消去することは不可能だ。

 かつて、高村光太郎について一著を上梓した時、以下のようなことを書いた。


「「編さんは年代順(編年体)にして個々の詩集題名の下に集めぬ事」(創元社版『高村光太郎詩集』編さんについての注意。昭和26年)

 「ただ製作順に自己の詩を並べて、注意深い読者におのずから筆者内面のエヴォリュウションを見てもらおうとしたのである。」(詩集『道程』の編さんについて。昭和26年)

 ここに見られる「編年体」の思想は、光太郎が生涯をかけてこだわった「自我の思想(既成の価値観を疑い、根源を掘り下げた独自の考えを徹底的に重視する考え方)」から派生する。「自我の思想」は、その単純さと原理性のために、思想それ自体についての考察や議論を許さず、生きることによってのみ価値となる性質を持つ。だから、光太郎が「自我の思想」について人に見せることが出来るのは、その思想を自分がいかに生き抜いたかという軌跡であり、それによって成し遂げられた人間的な成長の跡だったはずである。」


 また、中国明代の思想家・銭緒山は、『刻文録叙説』に、師・王陽明の次のような言葉を記録している(拙訳)。緒山が『王陽明文録』出版の許可を陽明に求めた場面である。


「文録の文章は執筆時期によって順序を決め、(詩、手紙、上奏文といった)文章の形式で分けてはいけない。」

「編さんについて執筆時期で順序を決めよと言うのは、若い読者に、私の学問が少しずつ変化していることを知らせるためである。」


 光太郎が陽明のこの言葉を知っていた可能性はほとんどないが、にもかかわらず、この陽明の言葉は、上の高村光太郎の言葉とまったく同内容と言ってよい。

 王陽明の思想(良知説)は、やはり光太郎の「自我の思想」とほとんど重なり合う。だからこそ、私は、光太郎について書いた時に、「編年体」を「自我の思想」の帰結だと書くことが出来たのである。

 

 「自我の思想」や「良知説」のような主体性の哲学は、私が今まで一貫して追及してきたテーマである。だから、自分の言動に対する姿勢についても、私は彼らに倣おうと思う。私の考え方は、これを書いている今の一瞬にしかなく、すぐに変化してしまうものであるが、駄文も含めて、書き綴られた軌跡が「私」なのである。そこに表れた未熟と愚かさを隠すまい。

 もっとも、過去に遡って私の文章を読むなどという物好きがそう居るとは思われないので、このように大層に考えるには及ばないだろう。私が削除しなくても、過去の駄文が今後読まれる可能性はほとんどなく、既に読んだ人も忘れてしまっているだろう。私としては気楽である。