オルテガそしてニカラグア



 今日の『朝日新聞』「ニュースの顔」というコーナーにダニエル・オルテガという人物が取り上げられていた。「ニカラグア大統領に就任」「通算3期目」といった文言を見て、あの「オルテガ」かと思った。写真を見ると、かつて私が写真で知っていたオルテガと、風貌があまりにも違うので、一瞬、誰だか分からなかったのだ。

我が家には、ニカラグア関係の書籍が10冊ほどある。10冊はたいした数ではないが、ニカラグアという国の日本における知名度、日本にとっての重要度の低さを考えると、まぁ「多い」と言うべきかと思う。私は、1988年10月27日から30日まで、わずかに3泊4日ながらニカラグアに行ったことがある。中南米をたった4ヶ月で縦断するという、気が狂ったような駆け足旅行だったために、中米はほとんどつまみ食い的に立ち寄っただけなので、そんな短期になってしまった。しかし、これほど強烈な印象を残した国は、その時以外の私の旅行史の中でも他にない。そこで、私の常なのだが、帰国してから後付学習に精を出した。本は、その時の名残である。そして、その当時の大統領がやはりオルテガであった。

 エルサルバドルから飛行機でニカラグアの首都・マナグアに入った。入国には60ドルの強制両替が義務づけられていた。入国カードに宿泊先を書かずにイミグレーションに提出したところ、宿泊先を指定された。空港のインフォメーションで尋ねると、バスはほとんど無いし、大変だからタクシーにしろと盛んに言う。やむを得ずタクシーに乗り、セントロに向ったが、なぜかインフォメーションの青年が付いて来る。少し走ったところで、青年に「セントロ(街の中心)はどこだ?」と尋ねると、地面を指さしながら「ここだ」と言う。周りはぼうぼうと草の生えたただの空き地である。所々に粗末なバラックが建っている。少し離れたところに、15階建てくらいの普通のビルと、10階建てくらいの三角形のビルが見えるが、ビルはそれだけである。青年にバカにされているのではないかと思ったが、やがて本当にそこがセントロであることが分かってきた。

 聞けば、ニカラグア国内でエレベーターのある建物は、上の二つだけらしい。前者は国立銀行、後者はホテル・インターコンチネンタルである。あとは荒れ地と廃墟(建物の残骸)と粗末なバラックばかりであった。一軒としてショウーウィンドウのある店があるわけでなし、アーケードもショッピングモールもない。カテドラルさえ廃墟である。よりによって首都の中心がなぜこんなことになっているのかと尋ねると、「地震があったからだ」と言う。その割りには生々しさに欠けるな、と思っていたら、続けて、「1972年に大地震があって1万人が死に、マナグアは廃墟になったのだ」と言う。私は耳を疑った。1972年というのは16年前である。16年間、復旧されることなく、一部は建物の残骸すら放置されたままで時間が過ぎていくことがあり得るものか。そんな疑念を見透かしたかのように、青年は、「世界中から復旧のための義援金が届けられた。しかし、当時の大統領・ソモサがそれを全て着服し、一族を連れて国外に逃げてしまったのだ」と補足した。一国の首都を復旧させるための資金を、一人の人間が全て着服して逃亡したというのも、現実離れをした無茶苦茶な話だ。

 街を探検すると、とにかく物が無くて貧しいこと、他に比較できる場所がない。スーパーマーケットがある。入ってみると、ある棚には商品が何もなかったり、ある棚には端から端まで同じ石けんがズラーッと並んでいたりする。スーパーに入っても、必要な物が揃うわけではないのである。メルカード・オリエンタールという庶民の市場があると聞いて出掛けて行った。戦後の闇市のような、薄汚い雑踏だったが、闇市と違ってここにはやはり物がなかった。大量に売られているのは、サトウキビとバナナばかりである。汚いことも話にならない。さすがの私でも、ここの食堂で食事をする勇気はなかった。聞くところによれば、唯一の高級ホテルであるインターコンチネンタルの中には「ドルショップ」があって、そこに行けば何でも手に入るそうである。ただ、物はそこにしかなく、ドル(外貨)を持っていなければ買うことは出来ない。私は、なんとなくその「外国」を見に行く気にならなかった。

 以前はよく、「インドは貧しい国だ」と言われた。しかし、インドはどこでも物が溢れていた。それを買えない人がたくさん居ただけである。ニカラグアには物自体がなかった。その意味で、やはりニカラグアは私が直接知る範囲で最も、そして圧倒的に貧しい。

 バスは猛烈に混んでいた。見ていると、空席のあるバスを走らせる余裕がないのだと分かる。ニカラグア2日目となる10月28日、私は古都グラナダへの1日旅行に出掛けたが、新幹線と同じ2−3の座席配置のバスが超満員(通勤時間帯の山手線状態)になるまで待ってからでないと、バスは動き出さない。グラナダはまとまりのある美しい街だが、マナグアと同じく、人通りが少なくて街に生気がない。

 入国の時の強制両替では、1ドルが1000コルドバだったが、2日後の29日には、1ドルが1300コルドバになっていた。私が訪ねる半年前に当たる1988年前半のインフレ率は1300%であった(後半は未詳)。

 今日の『朝日』の記事にもある通り、オルテガはいまだに強硬な反米左派らしい。彼の母体となっているサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)は、もともとマルクス主義政党ではないが、アメリカのレーガン政権が、アメリカの言いなりにならないニカラグアをつぶすために、反FSLN勢力を増やそうと、それがマルクス主義独裁政党であるとのデマを振りまいたことで、そのようなイメージが強くなった(上の「貧しさ」もアメリカの経済封鎖と反政府ゲリラ(コントラ)支援の結果である)。そして、アメリカがFSLNに強硬姿勢を取るに従って、FSLNは左傾化を強めた。私がニカラグアを訪ねた頃には、私自身もニカラグア共産主義政権だと思っていたし、その後、チリでパラグアイビザを取得しようとした時には、係官が私のパスポートにニカラグアビザを見つけて、共産主義国家への入国記録があるとし、ビザの発給を渋ったほどである(最終的に10日間だけのビザが下りた)。

 なるほど、資本主義は経済が活性化するが、貧富の差が大きい、共産主義では貧富の差がない(または非常に小さい。共産党一党独裁の今の中国は論外)。その意味で、ニカラグアはまさに共産主義的な社会であった。

 「ニカラグア」という名前を聞くと、これらの情景が頭の中に浮かんでくる。あの荒れ地であった首都のセントロは、その後どうなったのだろうか?オルテガは、今回、大統領選挙の投票所にベンツで現れたそうである。反米左派にベンツは似合わない。これは、何かしら、ニカラグアの変質を象徴するのだろうか?あの特異な国の25年後には強い興味を引かれるが、今、ニカラグアまで出掛けていくことはかなわない。