最近、Judicael Perroyという若いフランス人ギタリストが弾いたバッハのCDを手に入れた。リュート組曲をギターで弾いたというお決まりのものではなく、鍵盤楽器のためのパルティータ第2番ハ短調をTristan Manoukinという人が編曲したものをはじめとして、全て編曲ものというCDである。
私は「編曲盤」が非常に好きだ。そもそも、編曲とはなぜ行われるのだろうか?いくつかの理由が考えられる。
(1)その曲の魅力が、作曲家自身が考えたのとは別の方法でより一層発揮されると考えられた場合(例:ムソルグスキー作曲『展覧会の絵』のラベルによる編曲。なお、この場合、「別の方法でも発揮される」という場合もあるだろうし、マーラーによるベートーベンの交響曲の編曲やモーツァルトによるヘンデル『メサイア』の編曲など、時代に合わせるといった趣の場合もある)。
(2)違う楽器の専門家でも演奏できるようにした場合(例:ギタリスト山下一仁が編曲・演奏しているバッハの『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』は私の愛聴盤の一つ。ただし『無伴奏チェロ組曲』の方はダメ)。
(3)録音が存在していなかった時代に、身の回りの楽器で大規模な曲を演奏できるようにした場合(例:ロバート・レヴィン独奏のベートーベン『ピアノ協奏曲全集』に収められた、ベートーベン交響曲第2番の3重奏版。有名なリスト編曲のベートーベンの交響曲ピアノ版などは(2)なのか(3)なのか判然としない)。
(4)誰かの曲を編曲しながら作曲の勉強をした場合(例:バッハがビバルディの協奏曲をオルガン独奏曲にしたもの)。
他にもあるかも知れない。しかし、これら四つに共通するのは、その曲に魅力を感じていない場合に編曲が行われたりはしないということだ。駄作だと思った時に、編曲によって名作にして救ってやろうとは考えない。(1)だって、元がそれなりに名曲で、更なる可能性を感じてこその作業だ。文学の世界で、名作は繰り返し読まれ、様々な解釈を生み出していくのと同じである。編曲が為されることは、名曲の証なのである。そして、似顔絵が、人の顔の特徴を的確に抽出することで、本人以上に本人らしいと感じられることが度々あるのと同様、その曲の魅力がより明瞭に伝わってくる編曲、原曲の良さを再発見させてくれる編曲は少なくないと思う。
さて、ペロワ=マヌカンのバッハである。ギターでバッハを弾いたという意味では、山下とペロワは共通するが、なにしろ、『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』が、いくらポリフォニック(多重旋律)な構造を持つとはいっても、バイオリンの弦が4本しかない以上、最大でも4音しか重なっていないのに対して、『鍵盤楽器のためのパルティータ』は、2手10指のための作品だから、音の重なりははるかに複雑である。聴いてびっくり!これは芸術であると同時に、芸当である。多重録音をして音を重ねたとしか思えないが、どこを探しても、そんなことは書かれていない。
その結果として、ポリフォニーの持つ緊張感は、より一層強く伝わってくるように思うし、ギターは音色が古風なので、現代ピアノを使うよりも、バロックらしい感じもする。私は、グールドによるパルティータ第2番を決して聞き飽きたりはしていないけれど、こうして、その魅力を新鮮に伝えてくれるのはやはりいい。編曲ものは面白い。