ヒッグス粒子発見に際しての余計な心配



 ヒッグス粒子が発見されたという。実験施設を作るのに5000億円以上かかったとか、1200兆回以上の陽子衝突実験をしたとか、正に気が遠くなるような天文学的な大プロジェクトの成果である。そうしてヒッグス粒子を発見して何になるかと言えば、少なくとも直接的に得られる「利益」は何もない。単に宇宙の起源について何かを知ることが出来る、というだけのことである。しかし、これこそ人間だなぁと思う。人間だけが、食べることと子孫を残すことに直接関係しないことにエネルギーを費やし得るのである。かつて、某天文学者と話をしていて、彼が「私は人類を代表して、人類がどうやってここまで来たのかを解き明かそうとしている。人間にとって、知りたいと思うのは本能であり、知ることによって心が豊かになる。これは十分役に立っていると言えるし、その意味で天文学実学だ」と言ったのを、私は感銘をもって聞き、このブログにも書いたことがある(2008年10月2日)。正にその通り。今回のヒッグス粒子だって、発見に心ときめかせ、今後の研究の進展にワクワクするのは、やはり人間としての特権的な喜びだ。

 ところが、私は、また少し違ったことも考えてみる。

 今回、ヒッグス粒子が発見されたからよかったものの、5000億円以上を投じて何も見つからなかったら、どういうことになっていただろう?

 今年2月29日に書いたとおり、「ある」はひとつでも見つかれば完全に証明できるが、「ない」を確認することは極めて難しい。ヒッグス粒子だって、検出されれば「ある」のだが、検出されない場合、観測の方法や検出器の性能が悪いから「まだ見つからない」だけかも知れない。いったいどこまでやれば「ない」と断定できることになるかと言えば、う〜ん、これは困った話だ。

 5000億円が無駄かどうかはともかく、「ない」のではないか?となった場合、理論を根底から大規模に書き換えなければならなくなる。これもまた途方もない作業であるに違いない。だからこそ、「ない」可能性がどこまで高まれば、人は理論の組み換えに向って動き出す決心が付けられるかとなると、なかなか難しいのではあるまいか?

 塩野七生がよく引用するカエサルの名言「人間は自分の見たいと思う現実しか見ない」(『内乱記』)にあるとおり、ヒッグス粒子があって欲しい、あってくれないと困る、という意識が強く働きすぎると、いかに冷静、客観的な科学の世界とはいっても、ヒッグス粒子が存在するように恣意的にデータを読んでしまったりすることは、本当にないのだろうか?

 例によって天の邪鬼な私は、そんな心配も少ししてしまうのである。