「日本人」はやめよう・・・ノーベル賞の季節



 iPS細胞でつとに有名な、山中伸哉氏がノーベル賞を受賞だという。前評判の高かった人だから、驚くには値しない。もちろん、けっして悪いことではない。ただ、彼の業績がどれほどのものかがよく分からないので、手放しに「めでたい!」「素晴らしい!」とは言えない。医学生理学賞以外の賞も含めて、いろいろな事前予想を見ていると、当落線上に並んでいて、その中の誰が受賞してもおかしくないというような人が、世界には少なくとも数十人(数百人?)の単位で存在するのだろう。その中で誰が選ばれるのかということについては、「運」という要素も少なからずあるはずだ。素人が、その業績の中身をよく分かりもしないのに、賞を取ったというだけの理由でむやみに持ち上げ、その人だけが偉大であるかのように、社会全体で大騒ぎするのはいかがなものかと思う。

 今日の新聞各紙を見ながら鬱陶しく思ったのは、例によって「日本人として19人目の快挙」といった類の記事の多さだ。

 有名な話、ノーベル賞の発表において、国籍は問題とされない(ノーベルの遺言に基づく)。ノーベル財団は、これまでに幾度も、ノーベル賞の受賞が個人的栄誉であることを確認しているし、発表の際にも確か所属機関だけがコールされて、国籍はコールされないはずである。そもそも、ノーベル賞が対象とする「学問」というものは、国境も時代も超えるものの代表格だ。国籍を問題とし、「我が国から何人」という騒ぎ方をするのは、幸いにして日本人だけではないらしいが、なんともケチ臭い田舎根性に思えてならない。政治姿勢に関係なく、自分の母校や地元から総理大臣が出ると嬉しくなるのと同じ心性である。アメリカ国籍を取得した南部陽一郎氏を日本人の受賞者に入れるかどうかなど、本当にどうでもよい話である。そんなことに関係なく、彼の業績は存在し、人類全体に(多分)恩恵をもたらしているのだ。それでいい。

 (こんな事を書いていると、「日の丸・君が代」に冷たい平居は、やっぱり非国民だということになるの・・・かな?)

 また、iPS細胞については、再生医療との関係で語られることが多い。この点については、山中氏自身も非常に強く意識していて、臨床応用できてこそ自分の研究が価値を持つように語っておられる。ノーベル財団カロリンスカ研究所)による授賞理由においても、実用への期待は強く語られている。しかし、基礎研究としての側面が評価されてこそ、iPS細胞の発明(?)からわずか6年で受賞できたという話もある。「6年で」はともかく、私もどちらかというとその立場(=基礎評価派)だ。

 私は、再生医療との関係で言えば、この研究成果を評価してよいかどうか分からない。新しい技術は人間を幸福にすると同時に、不幸にもするからだ。手に入れた技術を使わずにいられない人間の「業」が、苦しむ人を増やす結果にもなることは間違いなく、差し引きプラスなのかマイナスなのかが分かりにくい。私が以前から言う通り、脳は着実に劣化するのに、肉体を維持する技術ばかりが開発されると困るし、治療に苦しみ、他者を巻きこむことになる「医療」も多く、それによる延命が、自然の摂理として正しいのかどうかは疑わしい所だ。

 しかし、例えばアインシュタインの理論が、最終的に原爆の開発に結び付いたからと言って、それを低く評価する必要はない。人類が新しい知識を獲得すること自体は絶対善と考えなければ、人類の「進歩」という考えは成り立たなくなってしまう。それをどのように使うかは別の問題であろう(原爆の開発は、学問ではなく政治の問題だ)。また、とりあえず使い道のない知識だって、その後発見された別の要素と結び付くことによって、人類に絶大な恩恵をもたらすということが起こり得る。つまり、後に悪用・濫用されたとか、今すぐ役に立たないとかいうことに関係なく、新しい知識は人類の財産としての価値を持つのである。

 だから私は、iPS細胞を、夢の医療を実現させるという実用性との関係で評価するのではなく、単にそれまで人類が為し得なかったことを為し得たという点でのみ評価したいと思う。この技術が人間を幸福にするか不幸にするかについて、山中氏は責任を負う必要がない。応用にはまた別の価値と評価が存在して然るべきだ。