平凡な喜怒哀楽の美しさ・・・『東京家族』を見て



 山田洋次監督の映画『東京家族』を見に行った。山田洋次の映画は、人間を描き、しかも人間を肯定していて優しいので、安心して見ていられる。寅さんの時代から大好きだ。

 さて、最初のうちはそうでもなかったが、真ん中くらいから幾度となく目がうるうるして困った。帰りの車の中でも、思い出すと目がうるうるしてくる。私は絶対に涙もろい人間ではないはずなのに、おかしい。

 では、いったいどういう映画かというと、これが何とも平々凡々な、筋書きと言うほどのものさえないような日常を描いた映画なのである。仮に私が、この映画が作られる前に、人からこの映画の台本を見せられたとして、決して映画に仕立ててみようなどという気は起こらないに違いない。何をどう描けばいいのか、イメージがわかないと思うのだ。

 にもかかわらず、私は退屈もせず、むしろさんざん目を潤ませながらこの映画を見た。この映画の真価は、ストーリーの展開やドラマチックな場面展開ではなく、他愛もない日常生活の中に緻密に織り込まれた喜怒哀楽にこそあるのだと思う。

 年齢のせいなのか、子供が出来て以来なのか、震災によって日常というものがどれほどはかないかということを思い知ったためなのか、(おそらくその全てだろう)、近頃、そんなさりげない喜怒哀楽が、この上なく美しくいとおしく思われてならない。そんな今の私にとって、この映画に満たされた喜(怒)哀楽はあまりにも美しかった。

 最後の場面の舞台は、老夫婦が長年暮らしてきた広島県、瀬戸内海の小島である。兵庫県の瀬戸内で中学・高校時代を過ごした私は、瀬戸内海が大好きだ。高校時代は、よく土曜日の午後に、自転車を30分走らせて瀬戸内海の海岸線まで行き、岩場に寝っ転がって景色を見ながら、考え事にふけったものである。ぼんやりと小豆島がかすんで見え、木にみかんの実が残り、水仙が咲く春先は特に美しい。なんとも穏やかで懐かしさを感じさせる風景だ。

 気むずかしそうな老人が、初めて三男坊の婚約者と言葉を交わし、ほめ、息子を託す場面もそれなりに感動的だが、前後に映し出される瀬戸内の小島の風景は、間違いなくその場面に満ちた「幸せ」を、私の中で増幅した。これは瀬戸内に暮らしたことのある人間にだけ起こる現象なのかどうか? そうではないのではないか? そしておそらく、山田洋次は、そのような瀬戸内の雰囲気と心理効果を知っていて、最後の場面の舞台に選んだのだろうと思う。隅々までよく出来た映画である。

 ところで、山田洋次という人は、文化勲章受章者であるが、共産党系メディアに登場することの多い人である。つまり、どちらかというと反体制的な言動の多い人で、劇場政治の「劇場」に彼の映画は不似合いである。にもかかわらず、この人の映画は人気があって、「行った」「行きたい」という言葉はずいぶんいろいろな人から聞いたし、石巻という片田舎の映画館でも、結構な数の客が入っていた。『男はつらいよ』も『学校』も『東京家族』も優しく穏やかで、作品として素晴らしいが、むしろ、客を喜ばせるための緊張に満ちたストーリーもどぎつい演出も何もない、こんな映画に人が入るということに、私は何とも言えない安心を感じるのだ。こんな映画を見に足を運び、笑ったり泣いたりする人がこれだけたくさんいるということで、日本もまだまだ捨てたものではない。そんな気になれる。