「哲学」は精神運動である



 昨日の夜、NHK(Eテレ)の「日本人は何を考えてきたのか」を見た。毎週日曜日の夜にシリーズで放送しているのは以前から知っていて、興味は引かれていたのだが、毎週1時間半もテレビの前にいるわけにはいかないので、見ることが出来ずにいた。昨夜は、西田幾多郎と京都学派がテーマで、特に彼ら日本を代表する哲学者が、太平洋戦争とどう向き合ったかということに焦点を当てていたので、「哲学」の底力を見せてもらおうと思ったのである。

 非常にがっかりした。西田幾多郎という日本の代表的哲学者は、戦争という現実の中で、あまりにも無力であった。政府=軍の示した方向性の正しさに疑いを持ち、問い直してこそ「哲学」であるはずだが、むしろ彼らは、それらを正当化するための論理探しをしている。

 もちろん、異を唱えれば自分の地位も命も危ないという状況の中で、哲学よりも我が身が優先したというだけの話で、論理の倒錯に気が付いていなかった訳ではないかも知れない。しかし、それはやはり、哲学というものがいかに現実に対して無力であるかを露骨に示して醜悪以外の何物でもない。なまじ人間存在についての「深い」洞察を持ったと言われるがために、なおのこと無力は醜悪なのである。真に哲学を大切にした結果として毒杯を仰いだソクラテスの偉大さを、改めて思う。

 学術は学術として自ずから価値があるのか、学術は現実に対して力を持たねばならないのか、それは一概には言えない。「基礎」と言われる学問は、直接的な目に見える結果を無理に追い求めようとしてはいけない。一見無価値・無力でも、いつの日か応用と結びつき、大きな力を現実に対して発揮することもある。しかし、哲学はそうではないのではないか?

 以前(2004年3月1日記事参照)書いたことだが、私は「哲学」を精神運動だと思っている。正しいと思われていることに疑いを差し挟み、何が真実であるかを暴き出していく、そのダイナミズムにこそ哲学の命はある。無批判に現実に流されることは、むしろ哲学の対極である。西田のような「深い」思想に至ることは出来なくても、そのような問い直しが常に行われている場所にこそ、「本物の」哲学はある。