日本学術会議のこと

 日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち、6人が首相によって任命を拒否されたことが大きな話題となっている。全て、以前に反政府的な言動があった人たちだという。
 はぁ、無知蒙昧なる私は、今回この事件が起きるまで、日本学術会議のメンバーが首相によって任命されるということを知らなかった。いつぞやの軍事研究に関する否定的発言などあったものだから、「政府にもの申す」ために、気骨ある学者たちが自ら集まっているものだとばかり思っていた。あるいは、終戦直後、科学者が戦争遂行に大きな役割を果たした反省に立って作られた団体ではないか?とも想像していた。
 あわてて、日本学術会議の何たるかを確かめてみようと、そのホームページを開いてみれば、まず次のように書かれている。

日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立されました。職務は、以下の2つです。
・科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
・科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。」

 Wikipediaによれば、「日本学術会議法」という法律があって、「経費は国の予算で負担されるが、活動は政府から独立して行われる」ことになっているらしい。教育委員会によく似たものを感じる。国が支出しているという年間の運営費は10億円ほどというから、かなり大がかりな組織である。
 私は「日本学術会議法」の原文を見ていないのだが、本当に活動が政府から独立して行われるのなら、人事への介入もあってはならない。人事に介入すれば、独立した活動などあり得ないのである。それは「解釈」云々という問題ではない。総理大臣の天皇による任命と同じく、1984年に国会で確認されたとおり、首相は組織から提出された推薦人をそのまま任命するしかない。
 危惧していたことが、そもまま行われたな、と思う。意外の感などない。前政権は、人事権を盾に、自分たちの思い通りのことをやろうとしてきた実績があるからである。法律解釈の軽々とした変更なども、前政権の得意技だった。「私たちは選挙で選ばれているのだ」を水戸黄門の印籠として、これくらいのことはやるだろう。更に、現首相は、官房長官として記者会見で、不都合なことにはしらを切り、気に入らない相手には質問の機会も与えない、ということをしてきた人である。
 確かに、首相は(直接+間接の)選挙で選ばれている。だが、選挙で選ばれていれば何をしてもいい、というものではない。選挙は白紙委任ではないし、自分に投票してくれた人にとっていいように動けばいい、というものでもない。日本学術会議が出した答申や提言を受け入れるか受け入れないかで政治家としての判断はすればいいわけで、メンバー選出の時点でも是非を判断するのは越権だ。
 根っこにあるのは、自分たちの考えの妥当性を疑わず、がむしゃらにそれを押し通すことが正義だという考え方である。民主主義の何たるか、というより、やはり決定的に欠けているのは「哲学」する能力なのだな(→「哲学」とは?)。

 上位者のやっていることというのは、大人と子どもの関係でも同じなのだが、必ず下へ下へと影響していく。政府見解と対立する主張をしている人が学術会議の会員になれなかったとなれば、政府に楯突いていると、学術会議のメンバーはおろか、○○大学の教授になれないのではないか?科研費がもらえないのではないか?・・・と、上の顔色を窺うようになってくる。何も露骨な嫌がらせや、法的な縛りなどかけなくても、政府は学術界の人間をコントロールできるようになっていく。若く不安定な地位にある人ほど、そして、政権が安定して強力であればあるほど・・・である。
 先日、アメリカ大統領選挙のテレビ討論会というのを見ていて、よその国のことながら気分が滅入ってきた。あのような人たちが超大国の指導権を争うというのは、結局、国民がそういう質だということだ。日本の政権も同じこと。民主的システムが整備された国において、政治家は国民の質を忠実に映し出す。現状を疑い、何が正しいかを考える、いわゆる哲学的思考の出来ない人が増えてくると、坂道を転げ落ちるように世の中は悪くなっていく。困った。