明るい新年・・・元日の読売新聞

 いつぞや書いたことがあると思うが、安倍政権が発足して以来、新聞のカラーがよりいっそうはっきりして、読売新聞は読むに堪えないと思うようになっていた。勤務先の学校の図書館にあるおかげで、時々は目を通すのだが、あまり積極的ではない。
 ところが、今年のお正月(1月1日)に目を通した大量の新聞の中で、一番気に入ったのは読売新聞だった。気に入った記事は二つある。ひとつは、第1面トップと第37面の「中国『千人計画』に日本人 政府規制強化へ」というもの。もう一つは、なんと社説だ。
 前者は、海外から優秀な研究者を集める中国の人材招致プロジェクト「千人計画」に、少なくとも44人の日本人が参加していたことについての記事だ。この記事のいいところは、単に中国政府の人材政策があくどいとか、そこに尻尾を振って(とは書いていないが)参加した日本人研究者を非難するのではなく、日本の貧しい科学技術政策への批判になっている点だ。それに参加している某日本人の「日本人研究者は少ない研究費の奪い合いで汲々としており、大学に残る人は減って、結果として科学技術力が低下している」という言葉、或いはまた別の日本人の「研究職は中国の若い人にとって魅力的な職業だが、日本ではいつクビを切られるか分からないハイリスクな職業になっている」という言葉を引き、博士号取得後の生活の不安定を指摘する。
 本当は、何を今更というような話である。日本政府は、自分たちが現在行われている学問の価値を判断できるような誤解をし、大学の基礎的運営費を削り、競争的資金を増やしていった。自分たちが将来性ありと見込んだ研究には手厚く、そうでない研究には冷淡な政策である。今回の日本学術会議の問題にも表れているとおり、根っこにあるのは学問や知識の価値の軽視、人間が積み重ねてきた知的財産への敬意の希薄さ、選挙で選ばれていれば何をやってもいいという傲慢さだ。
 記事によれば、政府は、海外の人材招致プロジェクトへの参加や外国資金受け入れの際の情報開示などを義務づけるなどの規制を検討しているという。規制すればいいというものではないだろう。ノーベル賞受賞者の中にも、研究の場をアメリカに移し、アメリカ国籍を取得した人さえいることは忘れてはなるまい。大切なのは、いつ役に立つか分からないことまで含めて、知的探求・創造という行為に価値を認め、それを尊重すること以外にはない。力によって押さえつければ、日本人であることさえ止めて海外に移住するか、日本で研究を続けてはいても、活力がそぎ落とされた状態になって成果を上げられないか、であろう。
 これらの問題は、社説でも取り上げられている。
 社説では、技術者や研究者を大切にしない企業風土の存在を指摘した上で、次のように書く。企業批判に見せかけつつ、批判の矛先はやはり政府だ。

「生産性向上や効率化を重視するあまり、人減らしで見かけの数値の改善を優先すると、優れた技術を持った人材は中国や韓国の企業にスカウトされてしまう。」
「今も、日本の大学や研究所ではポストが得られないからと、中国の研究所に高給で採用される若手研究者が多いといわれる。貴重な人材をみすみす流出させることが、日本の国力にとってどれほど大きな損失か。」
「技術も人間の営みである。人間力こそ国力の礎であることを思い起こしたい。」

 また、社説では、何でもデジタルという発想をも批判する。特に問題とするのは、教科書のデジタル化だ。

「デジタル機器の動画や音声を副教材として活用するのは有効だろうが、紙の教科書をやめてデジタル・タブレットに切り替えるなど、本末転倒も甚だしい。書物を読み、文章を書くことで人間は知識や思考力を身につけ、人間として成長する。数学者の岡潔が言っている。『人の中心は情緒である』(春宵十話)。教育の基本を間違えてはならない。」

 「本末転倒」の部分の説明がやや甘い感じがするし、突然、40年以上前に亡くなった岡潔大先生のご登場には驚くが、主張としては立派なものだ。これが本当に読売新聞か?と思うほどである(笑)。
 ただ、残念ながら、おそらく、今の政治家はこの社説をも理解することが出来ない。同様に理解できない国民によって選ばれているからである。そして、思い上がり、愚にもつかない悪政を繰り出す。日本が滅茶苦茶になった時に、なぜそうなったかもおそらく理解できない。
 発行部数日本一の新聞が、このような主張を出来るということが、かろうじて「救い」と言えば言える。明るい元日だった。