デジタル・ファシズム

 この数日、異常に暖かい。日中は、外を歩くにもジャケットがいらず、少し歩けば汗ばんで、カーディガンさえ脱いでしまう。カッターシャツ1枚だ。我が家では、この数日、ストーブをつけていない。ウグイスが鳴き始めるのではないか?と思うほどだ。どんな夏がやって来るのだろう?
 ところで、先々週の土曜日、仙台で、ある人から、昨年UNESCOがICT教育について分析したレポートについての話を聞いた。ほんの10分程度の立ち話だったのだが、もらった資料にも目を通しながら話を聞いていると、私にとっては極めて常識的、当たり前、しかし、おそらく今の日本の教育界にとっては耳に痛い話がずらりと並んでいる。
 例えば、「ICTが教育において効果的であるとの証拠はほとんどない」、「多くの証拠は、それを売ろうとしている人から提供されている」、「ICT採用のメリットを示した研究の多くは、業界の資金提供を受けているため、証拠には公平性が欠ける」・・・といった具合だ。その上で、「スクリーンは教師の人間性に取って代わることは出来ない、教師とICTの関係は補完性のひとつでなければならず、代替可能性の関係であってはならない」とする。
 また、「モバイルデバイスに近接しているだけで、生徒は注意散漫になり、学習に悪影響を与えることが、世界14カ国で判明し」、「2~17歳の子どもの分析では、スクリーンタイムが多いほど幸福度が低下する」、「スクリーンタイムの延長は、自制心と感情的安定性に悪影響を及ぼし、不安とうつ病を増加させる可能性がある」と警告している。
 もっとも、こんなことはUNESCOに言われるまでもない自明のことである。そこで、フランスは2018年9月、イタリアは2022年12月、フィンランドは2023年6月、そしてオランダは今年の1月から、法令によって学校でのスマホ利用を全面的に禁止した。そう言えば、昨年末にはニュージーランドでも同様の決定が下されたと耳にした。
 2010年代半ばに紙の教科書を全廃し、デジタル教科書に完全移行したスウェーデンは、最近になって方針を大転換し、紙と手書きのアナログに回帰することを宣言した。特に、6歳以下の子どもに対しては、デジタル学習を完全に廃止するという。
 一方、日本にそんな迷いや悩みは存在しないようだ。議論の余地など一切なく、デジタル化の推進が強く求められている。スマホの扱いは各学校ごと、もはや現実に押し切られる形で野放しに近い。
 この話を聞いた時、堤未果の『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書、2021年)という本が面白いよ、と言われたので、帰路に買ってきて読んでみた。「面白い」と言うよりは、背筋の凍り付くような話である。中に繰り返し出てくる「今だけ金だけ自分だけ」というフレーズは、日本人(だけではないかも・・・)の現状をあまりにも上手く言い表しているので、頭の中にこびりついて離れないくらいだ。
 書かれていることが本当かどうかは知らないが、確かにさもありなん、と思う。中には、いかに日本政府が脳天気にデジタルを信頼し推進しているか、そこにどれほど大きなリスクが潜んでいるか、という話が、これでもかこれでもかというくらい並んでいる。しかも、恐ろしいのは、無防備にデジタル化を進め、利益を海外に流出させるための鍵になるような法律が、実にさりげなく、ほとんど「いつの間にか」成立してしまっていることだ。
 ははぁ、戦争することを始め、情報を統制し、言論の自由を封殺するような法律でも、権力者というのは、こうしてさりげなく作ってしまうのだろうな?そんな応用的な心配までしてしまった。国民の監視が甘いと言うのは簡単だが、国会開会のたび毎に成立する膨大な数の法律を、一般市民が把握し、チェックするのは実質的に不可能だ。
 日本人の国民性として最も特徴的なのは、相対主義である。簡単に言えば、何が正しいかを考え、態度を決定するのではなく、周りの顔色をうかがいながら、当たり障りのない考え方を選択し、波風の立たない円満な人間関係を作ろうとする傾向である。私がよく言うことなのだが、それは最も非哲学的な態度だ。
 そんな日本人は、誰か声の大きな人(社会的な立場が強い人)が「デジタルだ」と言い出した時に、「え、ほんと?」と言うことが出来ない。破滅した時にだけ、間違いに気付くことが出来る。デジタルよりも、そんな国民性の方がより一層深刻な問題であると感じる。いや、そんな国民性とデジタルは表裏一体なのだ。政府のみならず、学校の中を見ていても、そのことはとてもよく分かる。う~ん、どうすればいいのだろう?いつもいつものことながら、あぁ、困った困った。