成功者の論理に思う

 続けて新聞記事に触れる。今日は8月8日付け毎日新聞「シリーズ 疫病と人間」欄。この日、語っているのはファーストリスティング(UNIQLO)社長・柳井正氏。ほぼ1面の大きな記事である。見出しとして「あまりに悠長だ。政権も野党も国民も」「デジタル化は手段。仕事の原点を考えよ」と強い言葉が並ぶ。
 私が共感を覚えたのは最後に近い次の部分。

「デジタル化はあくまで自動化やコミュニケーションの手段で、それだけでは問題は解決しない。アナログでも自分でやろうという気持ちがないと、根本の原理が分からないので、結局はデジタル化しても使えない。結局は何を実現したいのか、社会のため、人々の幸福のためだという原点を考えなければならない。」

 しかし、共感はほぼここだけ。次のフレーズを見てみよう。

「資本主義社会の中では、企業は成長しないと存在する意味がない。企業の成長なしには給料は払えないし、そこで働く人の成長もない。」

 ああ、(成功した)経営者の論理だな、と思う。デジタル化は手段だと認識できているのに、資本主義は手段として認識できていないのが、私にはひどく滑稽に見える。
 資本主義も手段である。人々が幸せになるためのシステムとして、資本主義がよければ資本主義に、社会主義がよければ社会主義にすればいい。原点は、「何を実現したいのか、社会のため、人々の幸福のためだという原点を考えなければならない」のだ(笑)。
 私には、企業の成長が、社員に給料を払い、社員が成長するための前提だという考え方が理解できない。少なくとも、私が今までに会ったことのある社長で、経済が成長し続けることを信じている人は一人もいない。経済が永遠に成長し続けられないとすれば、企業の成長も頭打ち、あるいは、特定の会社だけが成長を続け、他の会社は右肩下がり、社会全体の経済成長としてはやはり右肩下がり、となるしかない。そうなれば、給料は払えないのだろうか?毎月同じ売り上げでも、給料は払えるはずである。売り上げが下がっても、給料は払えるはずである。増えない、もしくは減るだけの話だ。
 私は、経済成長=より多くの生産と消費=より多くの石油消費=環境悪化=人類の破滅だと信じている。そんな目で見ると、問題が明瞭になる。要は「社会のため」「人々の幸福のため」という言葉の意味が、柳井氏と私とでまったく食い違っているのだ。柳井氏にとって、経済成長が続き、収入と消費がどんどん増える、それこそが「社会のため」であり「人々の幸福」なのだ。私にとって「社会のため」「人々の幸福」とは、コロナ禍をきっかけに経済規模を縮小し、分配(給料)が薄くなるようにし、できるだけ外国との行き来を減らして、最終的には「持続可能な社会」=「輸出入ゼロの社会」が実現することだ。そうでなければ、おそらく人間が生き延びることは難しい。だから、誰からも歓迎されないような主張ではあるが、最終的にそれが「社会のため」「人びとの幸福(と言うより、最悪の不幸でない状態)」なのだ。
 こう書けば、あまりにも極端だ、と思う人は多いだろう。私とて、明日からそうしようと言っているわけではない。ただ、目指す方向性としてはそうであるべきだというのである。仮に、私の極論を却下したとして、では柳井氏の論理で生きればどうなるか?そんなことは明々白々。本来は幸せを実現するために成長を目指すはずなのに、人間が経済に従属し、ただただ苦しい思いをすることになる。そんなことは、私が高校時代、今から40年も前ですら、既に「資本主義社会における人間性の疎外」として問題視されていたことではないか。それを解決する方法を、この40年間で人間は、柳井氏は見つけられたのか?・・・おそらく、答えはNOだ。
 どうも、全ての問題は同じ根源にたどり着く。昨日と同じく、「今の利益と将来の利益は矛盾する」「メリットは目の前に、より大きなデメリットが将来に」である。「幸せ」を50年以上のスケールで、かつ地球規模で考えられるかどうか。問われてくるのはそのことなのだけれど、現行制度の中での成功者は、短い時間的スケールで、「地球規模」を経済活動に限定して(派生してくる問題は一切無視して)考えるという技を持つが故に、成功者となれたようだ。記事を読みながら、さすがは成功者・・・とはどうしても思えなかった。